佐藤さんが修復した曾我兄弟、忠臣蔵などが大舞台で上演されたのはわずか3度だけである。
1回目は公共・国立科学博物館で2003年に開かれた江戸大博覧会だった。まだレプリカはできていなかったため、修復が終わっていた曾我兄弟の本物を持ち込み、1日だけ大舞台で上演した。上々の評判で、博物館からは
「1ヶ月間上演してくれないか」
と頼まれたが、平日は仕事をしなければならない佐藤さんたちにできるはずはない。丁寧にお断りした。
2度目は2004年、トヨタ自動車が名古屋市に作った産業技術記念館の10周年記念で出展を求められた。期間は2週間である。トヨタ自動車のルーツは豊田佐吉がおこした豊田自動織機製作所である。織都桐生とは何かと縁が深い。喜んで引き受けた。
すでに曾我兄弟に加えて忠臣蔵、巌流島も修復が終わっていた。レプリカも一部できつつあり、忠臣蔵ではオリジナルにはいなかった清水一学、堀部安兵衛も持ち込み、期間中の土曜、日曜の4日間、桐生から駆けつけてこの3つのからくり人形芝居を上演した。同時に、まだ修理が終わっていないからくり人形を館内に展示した。地元の東海テレビが生中継した。
「落語家の春風亭昇太が司会役でした。私たちがからくり人形を操り始めると、口をあんぐりと開けて見とれていましたねえ」
最後は2006年3月、本町1丁目での「忠臣蔵」の上演である。桐生天満宮の社殿保存修理が終わったのを記念して本町1丁目商進会が興行した。野外にしつらえた大舞台の前はたくさんの市民で身動きならないほどの盛況で、市長や市議会議長、商工会議所会頭も交じり、賑わいぶりは群馬県の広報誌「グラフぐんま」に大きな写真付きで掲載された。
「あの時ね、飛んじゃったんです、舞台の屋根が。野外でしょ、当日は風が強かったんですね。大丈夫かなあ、と思っていたら、天井から降ろした幕が風に煽られてはためき、次の瞬間に屋根がふわっと浮き上がって幕と一緒に飛んで行っちゃった」
突然のハプニングだった。
「思わず私は、舞台の人形を抱きかかえました。人形まで壊れちゃアウトだからね。お客さんは何だか呆然としているの。ひょっとしたら、『屋根まで飛ばすなんて、大がかりなからくりだなあ』なんて思っていたのかも知れませんね」
舞台を作った大工さんが、柱と屋根をかすがいで繋ぐのを忘れていたのが原因だと、後で分かった。あの時は肝を冷やしたが、今となっては懐かしい想い出である。
だが佐藤さんはいま、自分が作った人形たちに手を触れることができない。曾我五郎、十郎も矢頭右衛門七も宮本武蔵も助六も、佐藤さんが操ることはできないのである。