東京が肌に合わず足利に戻って手にした職は自動車整備工場の事務だった。
「自動車の修理がしたかったのに、人生ってなかなかうまく行かないもんだね」
だが、他に生計を立てる手段はない。我慢に我慢を重ねて鬱々としていた。足利の時計店で働いていた女性にバッタリあったのはそれから1年ほどたった頃だった。
いまは桐生の清水時計店に勤めているという彼女に、自動車の整備を覚えたいのに事務仕事をやらされていると話すと、
「そんないやな仕事なら、辞めてうちにおいでよ」
と誘ってくれた。
「宝石の担当がいなくて困っているから」
何でも宝石担当が闇商売に手を出して国税庁に摘発され、宝石の仕事を誰も出来なくなって困っているのだという。
実は佐藤さんは足利の時計店にいたとき、
「時計の修理はどうも性に合わない。宝石を勉強させて欲しい」
と店主に願い出て宝石を学んだことがある。図工が得意だった佐藤さんは、宝飾品のデザインに関心を持ったのだ。その知識が生かせる。
それに、当時の桐生は、佐藤さんの目には魅力がいっぱいだった。足利に比べて街並みが美しい。盛大な祭りがある。それに夜の町が華やかだ。特にキャバレーがたくさんあって、芸者さんまでいる。足利にいる間に何度も遊びに行った町である。
佐藤さんはこの誘いに飛びついた。
清水時計店は経営者は変わったが、桐生の商店街のほぼ中心、本町5丁目の交差点近くに今でもある。そこに佐藤さんは住み込んだ。「宝石主任」の肩書きが着いた。昭和41年(1966年)秋のことだった。
桐生市で祇園祭、七夕祭り、花火大会などが一緒になって桐生まつりが始まったのは、佐藤さんが移り住む少し前、昭和39年(1964年)である。祭りになると各商店が店の前に出す七夕飾りのコンテストも開催され、知事賞や市長賞が出ていた。それが競争心を煽り立て、七夕飾りは年々豪華さを増していた。だが、豪華にはなっても単なる飾りである。仕掛けも何もないから、動く事なんてない。
翌昭和42年夏、佐藤さんはすっかり桐生と清水時計店になじみ、宝石の仕事も軌道に乗せていた。人生が順調に転がり始めれば、遊び心がムクムクと芽を出すのは誰しも同じだろう。かつてのガキ大将、佐藤さんの遊びの虫が目を覚ました。
これまでからくり人形を飾った店はない。それに、動かない人形に比べれば費用ははるかにかかるはずだ。そんな唐突な提案がすんなり通った。佐藤さんは早くも清水時計店には欠かせない戦力になっていたからに違いない。60万円という予算がポンと出た。