金襴を現代に 周敏織物の3

【海外】
創業者の敏夫さんは紋紙を作る紋切所の次男に産まれた。仕事は兄が継ぐはずで、敏夫さんは国鉄(いまのJR)に就職した。ところが、間もなく兄が亡くなってしまう。

「帰ってこい」

といわれて戻ったが、紋切所を継ぐ気はなかった。そのまま桐生市内の機屋に修行に出て1946年、周敏織物を立ち上げた。恐らく、機屋の下請けという色彩が濃い紋切りの仕事が嫌だったのだろう。数台の織機を入れ、帯中心の機屋として帆を上げた。

地元の桐生だけでも機屋は数多い。それぞれが取引先に仕上がった織物を納め、覇を競っている。その世界に新興の機屋として参入を図る。しかも、大手の機屋から仕事を廻してもらう賃機ではなく、横並びの機屋として勝負しようというのだ。今から考えれば無謀ともいえる船出である。

「だから苦労したと思いますが、私たちにその苦労を感じさせることはない親父でした」

と通人社長は振り返る。

周敏織物は1949年、有限会社に、1963年には株式会社に改組する。それから11年で新工場を建て、高速のレピア織機を入れるまでに成長した。その過程で金襴専門の機屋に脱皮する。そして、安価な「佐賀錦」が産まれ、取引先に高く評価される色使いが育った。

いま筆者の耳には

「周敏織物さんに本気を出された日には、俺たちはおまんまの食い上げになっちまう」

という同業者の声が届く。それだけの存在感を持つようになった周敏織物はこれからどこに向かうのか。

「海外です」

と拓哉専務は断言した。

「アジア、特に台湾やモンゴルでは、金襴がちょっとしたブームになっているんですよ。日本に代理店を置いて金襴を買い付けているところもあるほどです」

日本製の金襴が現地で民族衣装に仕立てられ、人気を集めているという。

「そして、欧米にも出て行きたいですね」

いまの金襴は、昔ながらの重厚な色柄のものだけではない。流行色はこの世界にも入り込み、近年は明るい色が好まれる。人形の衣装にも仏具にも桜色に近いピンクなどパステルカラーが使われている。こんな現代的な金襴が欧米で認められたら……。

そういえば、周東通人社長のかつての夢は、商社マンとして世界を飛び回ることだった。ひょっとしたら拓哉専務が、自分たちで織り出した金襴を武器に世界を飛び回る夢を現実にする日が来るかもしれない。

 写真:周東拓哉専務

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です