【120%=モノづくり】
機屋に生まれながら、須永さんに家業を継ぐ気はなく、大学を出ると地元の金融機関に入った。だが、何となく仕事が肌に合わない。
「とりあえず商売をしてみたいんだよ」
と、家業に入ったのは26歳、1986年のことである。
当時の須裁は中東、欧米向け輸出用のイブニングドレス生地が専門だった。織機は輸出用生地に合わせて調整したものばかり。国内ではほとんど需要がないラメ入りの糸を使った生地などを織っていた。
ところが1988年、突然輸出がゼロになった。急速に進んだ円高で国際競争力がなくなったのだ。須裁は慌てた。売上ゼロだ。どうする? 連日のように幹部会議が開かれた。まとまった結論は
内需転換
だった。輸出用の生地はやめ、国内向けに切り換える。それしかなかった。
ところが、輸出用に特化した須裁にとっては「言うは易く行うは難し」の方針転換でもあった。織機は輸出用生地に特化している。それに、国内で好まれるポリエステル、トリアセテートなど糸は織ったことがない。経験がない会社が、ライバルがひしめく世界に参入できるのか?
須裁に入ったのは腰掛けのつもりだった。しかし、祖父、父と受け継いできた家業が明日をも知れない。須永さんは飛び回り始めた。
内需専門の機屋さんに教えを請いに行った。
「うちの織機で織れるでしょうか? それに、仕事を廻して頂けないでしょうか?」
しかし、他の機屋さんから廻してもらう仕事だけでは経営が成りたたない。国内向けの問屋、アパレルメーカーに飛び込み営業をした。担当者に会えると仕事を下さいと頭を下げた。国内向けの生地を見せてもらい、これから売れそうな生地の見通しを聞いた。
試作を繰り返した。それまで使っていた古い織機では本格生産はできないと見極めると、新鋭の織機を6台入れた。何となく、
「これでやっていけるかなあ」
と思えるまでに3年以上かかった。
「あとは、見よう見まねで今日まで来たわけです」
いま、須永さんの働きぶりは凄まじいの一言である。1年365日、ほとんど休まない。2022年12月30日に尋ねたら、工場からは聞き慣れた機音が響いていた。
「納期がありますからね。ま、1月1日だけは、世間体から織機は止めますけど」
「見よう見まね」とはそんな苦行を強いる者なのか? 須永さんはなぜそんなに働くのだろう?
「ほら、私、ゼロから出発したじゃないですか。だからかなあ、ああ、俺は何も持っていないんだ、という渇望感がいつもあるんです。何か確かなものを、自分の手で織り出したいんです。自分だけのものが持ちたい。そんな思いが消えないんです」
須永さんは須裁だけのものを追い求める。電子ジャカードの導入も、おびただしい数の試作品も、ファクトリーブランドも、須裁だけのものを追い求めることだった。
それでも須永さんはいう。
「うちなんか、まだダメですよ。うちでなきゃ出来ないことって、まだありませんから」
クリエーター魂が大きな炎を上げて須永さんの中で続けている。
写真:Charrmは工場の一角にあり、外観は白一色だ。