日本1のフローリスト—近藤創さん その9 何故勝てない?
善は急げ。近藤さんは大学を卒業するとすぐに桐生に戻って「花清」に入った。そしてもう1つ「善」が重なった。5月に祐子さんとゴールインしたのである。2人3脚の歩みが始まった。 己の美しさを競うように咲き誇る花々を商う生花店は...
善は急げ。近藤さんは大学を卒業するとすぐに桐生に戻って「花清」に入った。そしてもう1つ「善」が重なった。5月に祐子さんとゴールインしたのである。2人3脚の歩みが始まった。 己の美しさを競うように咲き誇る花々を商う生花店は...
「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが 「花の清さん」 と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかった...
近藤さんは、活け花にはある程度の自信があった。中学生で父に学び、高校生になると手ほどきを受けることもなくなっていたからである。お前に教えることはもうない、と認められたということだろう。 だが、その父が、生花店が生き延びる...
大器がいよいよ姿を現したのは、大学2年生の夏のことだった。夏休みで帰省した近藤さんに、父・宗司さんが声をかけた。 「おい、今年は新潟でJFTD主催のフラワーデザインのコンテストがある。俺は出るつもりだが、どうだ、お前も出...