相変わらず、見通しも計画もないままの離職である。年齢はすでに30歳。無鉄砲はもう、二渡さんの天性というほかない。何かが二渡さんを突き動かし続ける。
さて、どうしよう。まともに考え始めたのは職を離れてからだ。もう、「若い」という年齢ではない。親にすがるなどもってのほかで、すでに実家も出ていた。
「えっ、仕事辞めたの。だったら、うちの仕事を手伝ってよ」
前の仕事で付き合いがあった東京の取引先から、数件のオファーがあった。しかし、就職したら同じことを繰り返すのではないか? それに、大好きな桐生を離れて東京に出るのも気が進まない。だったら、いっそのこと起業するか?
いまの店舗の近くに店舗を借りて倉庫にした。ここを拠点に、東京のアパレルメーカーの仕事を桐生の染め屋さん、刺繍屋さん、縫製屋さん、プリント屋さんなどにつなぐ。メーカーは、織都桐生の全貌を知らない。織都桐生の職人さんたちは、メーカーに伝手がない。その仲介をする。倉庫は出荷待ちの製品の一時置き場である。
両方から喜ばれた。それに、10年ほど服を売り続けて、いつかは自分でも服を作ってみたいと思い始めていたから、
「少なくとも服を作る手伝いはしている」
という満足感もある。
人は欲張りだ。起業から1、2年は手伝うことだけで満足していたのに、やがて不満がムクムクと頭をもたげてきた。
「やっぱり、自分で服を作りたい!」
桐生市内で繊維を手がけている会社とは仕事を通じていい関係が築けていた。それぞれの職人さんの得手、不得手も分かってきた。彼等の得意分野をつないでいけば自分でも服を作れるのではないか?
「そう、そんなことを考えてるの。いいねえ。作ってサンプルを送ってよ。展示会にかけてみるから」
と声をかけてくれたのは東京のアパレルメーカーの部長さんだった。その一言が最後のダメ押しだった。
「よし、やってみる!」