桐生の職人さん  はじめに

私が「自慢」している群馬県桐生市は「織都」を自称することは何度か書いた。織都。織物の町である。昭和10年代の初めには国の予算額の1割前後にも上る繊維製品がこの町で作られ、国内だけでなく海外に向けても出荷されていた。いまの政府予算に換算すれば、1年間の繊維製品出荷額は約10兆円にも上る。当時の人口は7万6000人程度。たったそれだけの小さな町に巨大なお金が流れ込み、飛び回っていた。

だが、筆者が桐生に赴任した2009年に手にした統計では、繊維製品出荷額は300億円を超える程度だった。この間、糸で縄を買ったといわれた日米繊維交渉があり、アジアが繊維製品の主要生産地となる産業構造の変化があったにしても寂しい限りである。しかも、桐生の繊維産業の衰退にはその後も歯止めがかからず、2019年には220億円にまで落ち込んだ。一時町を市えたパチンコ産業も、メーカー3社が市外に出た。このようにデータを並べれば、桐生は終わった町、終わりつつある町に見えるかも知れない。

ところがどっこい。桐生に織物を伝えたという白瀧姫伝説から1300年にわたる織都としての歴史を誇る桐生には、墓場に入れてもらってはみんなの大損になる宝物がある。繊維産業を支える職人たち、彼らの技である。

考えてみれば、1300年もの長い間桐生が織都として胸を張ってくることができたのは職人たちの努力のたまものである。競争仲間と張り合い、他産地にないものを、他産地ではできないものを産み出し続ける職人たちの汗と知恵と熱意が脈々と積み上げられてきたから、いまでも桐生は織都なのである。歴史の荒波の中で桐生を支える基幹産業の地位からは滑り落ちたかも知れないが、いまでも桐生を支える中核産業であり続けているのは、先人たちの職人魂を受け継ぐ職人たちが、日々精魂を込めて仕事に打ち込み、不可能を可能に変えているからなのだ。

それを筆者は、桐生の原石と呼んできた。原石は磨けば光る。

筆者が桐生に来てすでに11年が経過した。赴任当時から、繊維製品は桐生を考える基軸として常に頭の中にあった。桐生の再興を図るには繊維産業の再活性化が必要だと主張したこともある。1300年の歴史が培った技は桐生の宝物であり、磨けばもっと輝きを増すはずだとの持論も隠さなかった。地球に70億人の人がいて、すべての人が何らかの布を身につけている。やりようによっては桐生の繊維産業を活かす道が必ずあるはずだ。原石を磨こうではないか。

しかし、恥ずかしい話だが、そんな議論をしながら、桐生の技を支えている職人さんたちに筆者の目はこれまで向かなかった。職人とは光が当たることが少ない仕事であるとはいえ、我ながら情けない話だ。

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