化学を極める ホリスレンの1

【刺繍糸】
刺繍糸には2つの厳しい性能が求められる。

・経年変化に強いこと
刺繍糸は一巻き6000m〜9000m程の長さで供給される。様々な色を使うため、大量に使う糸と少量しか使わない糸が生まれる。このため、少しだけ使う糸は、一巻きが5年後、10年後も使われることがある。10年たった糸に出番が来た時、褪色して色が変わってしまっているのでは、その糸を使った刺繍屋さんは注文主のアパレルメーカーに叱られ、刺繍糸メーカは刺繍屋さんからクレームを受けて、やがて客をなくしてしまう。長年、日の光が当たっても、空気中の水分に晒されても色が変化しない高度な堅牢性は、刺繍糸になくてはならい。

・水に強いこと
ポロシャツ、靴下など、刺繍で出来たワンポイントマークで知られる繊維製品は数多い。こうしたワンポイントマークを売りにするブランド・メーカーは、刺繍の糸の色に強いこだわりを持つ。洗濯を繰り返しても、刺繍は当初の色を失ってはならない。
そこまでこだわらなくても、刺繍糸の色が水で落ちたらどうだろう? 落ちた色は生地にシミを作る。刺繍の周りが薄らと刺繍の色に染まったら、客は販売店に苦情を持って行くはずだ。水に強い事、水道水に含まれる塩素でも色が落ちない事も刺繍糸の条件である。

このため、刺繍糸は日光にも水にも塩素にも最も強い耐性を持つスレン染料で染めるものがほとんどだ。スレン染料は水に溶けない。アルカリ剤と還元剤を加えて水溶性にした上で繊維に浸透させ、染料溶液から引き上げて空気中で酸化させ、もとの色に戻す。もともと水に溶けないから強靱な耐水性を示し、その上耐光性も強い。過酷な環境に晒される軍服や制服に多く使われるほか、あのバーバリーのトレンチコートもスレン染めした糸で仕立てられている。
スレン染めの複雑な染色工程は高度な職人技の固まりである上、染料の価格が他と比べて極めて高い。そのためか、手がける染め屋さんは少ない。
日本最大の刺繍糸メーカーであるパールヨットの糸の染色を一手に引き受けるホリスレンは、その社名からも分かるように、スレン染めを専業とする染め屋さんである。

【スレン染め】
「ええ、スレンってやつは実に扱いにくいんですよ。ちょっと見ていて下さい」

「赤」に染め上げるスレン染料

初めてホリスレンを尋ねた時、2代目社長の堀貴之さんは応接間のテーブルにフラスコやピペットなど、かつて高校の理科室で見た記憶のある懐かしい道具を並べた。何が始まるかと見つめていると、魔法瓶からフラスコに湯を注ぎ、そこに、焦げ茶とも言える深い赤のスレン染料を加えた。出来た液はドロリとした赤である。

 

「ご覧になっているように、スレン染料は水や湯には溶けません。混じり合っているだけです」

堀さんはピペットになにやら液体を吸い上げると、この染料の中に数滴垂らした。

「いま、還元剤させました。こうするとスレン染料が水に溶けます。この状態にしないと糸を染めてくれません」

数秒後、堀さんはフラスコから糸を引き上げた。オレンジ色に染まっている。ところが、見る見る内に再び色が変わり始めた。空気に触れているところからどんどん赤くなっていく。

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