智司少年は、あまり手がかからなくなった5歳になって生家に戻った。すぐ近くに、「四丁目小町」と呼ばれた父方のおば、富貴さんが嫁いでいた。ご亭主は桐生工業専門学校(いまの群馬大学理工学部)の先生である。
魚屋だった松井家が機屋に転業したのは、親が
「こんな綺麗な子が魚屋の娘では可愛そうだ」
と考えたからだという、何だか魚屋さんには気の毒な言い伝えが残っているほどの美人だった。しかも、東京の女子校に進んだインテリであり、卒業して桐生に戻ってくる時は夜会服(イブニングドレス)姿で汽車を降り立った、時代の最先端のファッションセンスを身につけたおしゃれな人だった。
嫁ぎ先は桐生市内有数の料亭だった。生家に戻った智司少年は足繁くこの家に足を運び始める。
第2次世界大戦のあおりで戦時中に廃業していたが、元は繁栄する桐生で覇を競った一流の料亭である。家の造りが全く違った。
客を迎え、もてなし、楽しませるのが料亭である。勢い、オシャレで粋な雰囲気が漂っている。玄関の間は畳敷きの3畳。大小の部屋が複雑に配置され、何度も曲がりながら部屋を繋ぐ廊下にも畳が敷き詰められている。
部屋に置かれた座卓や脇息には職人の凝った仕事が見て取れた。欄間や障子、床の間の意匠も目を引く。床の間を飾る掛け軸、廊下のあちこちに何気なく置かれた壺、食事を盛る器、それを運ぶお盆、添えられた箸。贅をこらした品々が智司少年の目を楽しませたのである。
「庭も素晴らしかったですねえ。石の配置、上手に剪定されて枝振りがみごとな木、季節季節の草花など、街の真ん中にいるのに広大で美しい自然の中にたたずんでいるような感じがして、縁側に座ってボンヤリ時間を過ごすこともありました」
智司少年は空襲が激しさを増した昭和20年(1945年)の春、四万温泉に疎開した。そのおばさんの嫁ぎ先の親戚が経営する料理旅館である。母と妹、弟、それにお手伝いさん一人と一緒だった。
料亭にはすっかり馴染んだ智司少年の目に、料理旅館はまた違った空間に思えた。客を迎えてもてなすのは同じだとはいえ、町中でのもてなしと、温泉地でのもてなしは違うのだろう。こちらの方がおおらかでゆったりしている感じがする。
部屋から部屋を歩き回り、
「こっちはこう作ってるんだ」
と新しい発見をするのが日課になった。
智司少年は、やっぱり「少し違った」少年だったのである。
ちなみに、智司少年は終戦の玉音放送を町のラジオ屋で聞いた。
「桐生に帰れる!」
料理旅館の探検は楽しくても、友達がいないのが寂しかった。桐生に戻る。あいつに会える!
矢も立てもたまらなくなった。母や妹がやっている帰宅準備がじれったくなった。
「僕、先に帰る」
と、1人で四万温泉を出た。とはいえ、四万温泉から桐生までは100㎞程の道のりだ。それを小学2年生が1人で?
広沢のおばあちゃんが四万温泉までハイヤーで迎えに来てくれたのである。
昭和20年。小学2年生。ハイヤーでのお迎え。智司少年は文字通り、銀のさじをくわえて生まれてきたのだった。
写真:四丁目小町と呼ばれたおば富貴さん。