預け先の母の実家は丸帯専業の機屋だった。こちらも他に先駆けて力織機、それも※ジャカード織機を入れ、当時の最先端の技術で美しい帯を織っていた。
※ジャカード織機:コンピューター制御織機の先駆けともいえる自動織機。穴の空いた厚紙(紋紙、という)で引き上げる経糸を制御し、紋紙に記録されたパターン通りに織り柄を作った。
だから、こちらも飛び抜けて豊かだった。おじいちゃん、おばあちゃんにおばさんが2人、おじさんが一人の家庭で、子守を兼ねたお手伝いさんが一人同居していた。智司社長の母・タケさんははこの家の長女である。
みなオシャレだった。仕事柄もあるのだろうが、智司社長の記憶には、いつもとびきり美しい和服を着こなして動き回っていた祖母や叔母たちの姿が焼き付いている。
こういうのを猫可愛がりというのだろう。祖母や叔母は、買い物、機屋仲間との打ち合わせなど、どこに行くのにも智司君を伴った。外出となると、2人は家にいるときよりもさらに美しい着物を身につける。
「本当に美しくてね。中でも、しばらくして高崎の呉服問屋に嫁いだ上のおばさんはオシャレで、一緒に歩きながらうっとりと見つめてしまっていました」
祖母は芝居が好きで、いまの松井ニット技研からそれほど離れていないところにあった「桐座」がお気に入りだった。智司君を預かってからは、芝居見物のお供は決まって智司君だった。
「ある日、市川歌右衛門が舞台に出ましてね。ええ、女形です。舞台の天上から藤の花がいっぱい下がっていて、そこに藤の枝を肩に挿した歌右衛門が烏帽子をかぶって登場するんです。だから、あの芝居は『藤娘』だったのかなあ。綺麗なんです。舞台衣装が派手やかでしょう。そこに藤紫の花が溢れている。とにかく、綺麗で綺麗で、何ていうんでしょうねえ、そう、魂を奪われたみたいになって、もう舞台から目が離せないんです」
智司君は5歳になると生家に戻ったから、これは3、4歳の頃の記憶である。生まれて3、4年しかたっていない幼子が歌舞伎舞台の絢爛さに魅せられて我を忘れ、しかもその記憶をいまに至るまで持ち続ける。普通にあることではない。ませた子どもだったというより、人に増して「美しさ」に鋭敏な感受性を持って生まれついたのだろう。
智司社長を惹きつけたのは舞台だけではなかった。祖母に連れられて通い詰めた「桐座」には、客として芸者衆も通っていた。芸者とは流行の最先端に触れ、身にまとってお座敷で客をもてなす仕事である。それだけではない。もてなしには話題の豊富さも必要だ。彼女たちは身銭を切って教養を積み重ね、仕事に備えていた。「桐座」は彼女たちの学習の場でもあったのである。
勉強が目的とはいえ、普段着で来る芸者衆はいない。美しさも芸者衆の武器の一つである以上、たくさんの人がいる場に出る彼女たちは念入りに化粧をし、美しく着飾って妍を競った。
「桐座」の智司君は舞台からだけでなく、自分を取り囲む客席からも美しさを吸収していたのに違いない。
智司君がやがて、祖母に連れて行かれた呉服商の店頭で
「おばあちゃん、この着物、きっとおばちゃんに似合うよ」
と口にするほどの「目利き」になった。溢れるほどの美しさに取り囲まれているうちに、智司君の内側で、知らず知らずに美しさに対する独自のセンスが育っていたのだと思われる。