購買担当の女性が気に入ってくれた2つ目の点、房の作り方は智司社長が工夫に工夫を重ねて生み出したところだった。
マフラーは、首に巻く本体部分と、両端を飾る房の部分を別々に編み、あとで縫い合わせるのが普通の作り方である。だが、松井ニット技研のマフラーに付いている房は、松井ニット独自の作り方をしている。
織物の町として栄えた桐生を支えたのは、よりよいものを生み出そうという職人たちの創意工夫の積み重ねだった。水力を使い、同時に数多くの糸に撚りをかける八丁撚糸機は、桐生で発明されたと伝わる。最高級の絹織物といわれるお召しも桐生生まれだ。11代将軍徳川家斉が好んで「お召しになった」ことからお召しの名がついたといわれる。
近年、桐生の織物業が奮わないのは国内で和服離れが進み、洋服生地の生産地もコストが安いアジア諸国に移ったという時代の流れもあるだろう。だが、産地である桐生には何の落ち度もなかったのか? 桐生から創意工夫積み重ねが途絶えかけているのも一因ではないか?
智司社長には最盛期の古き良き桐生の職人魂が生き続けているのかも知れない。他と同じものをつくって何が面白い? もうひと工夫ができないか? 智司社長は常にそう考え続けている人である。
ふとひらめいたのは、マフラー本体と一緒に、房の部分も編んでしまうことだった。最終的に房になる部分は、織物でいえば横糸をなくして縦糸だけにする。編み上がれば、房用に編み上げてすだれのようになっているところを真ん中から切断すれば房がついたマフラーになる。こうすれば、一度に何本ものマフラーを編み上げることができる。
これまでの作り方に比べればはるかに合理化できるではないか。それに、一緒に編むのだから、本体と房が完全に一体になってデザイン上もよい。
「思いつてから、それができるようにラッセル編み機をカスタマイズしまして。はい、自分でやりました。私、子どもの頃から工場で遊ぶのが好きで、いつも編み機を眺めていました。だから編み機の動き方、制御の仕方に子どもの頃から親しんでいて、機械のことが少し分かるんです。編み機のカスタマイズは私の趣味みたいなものかも知れません。編み物工場って零細企業が多いし、編み物は分かっても機械が分かる人はほとんどいない。だから機械をカスタマイズしようとしてもお金がかかるんで、思いつても誰もやらないんです。それを自分でやってしまう私は凝り性なんでしょうかねえ」
色を切り替えて格子柄に編むのを「二段切り替え」という。編み物工場ならどこでも出来ることだ。智司社長が実用化していたのは、さらに途中で編み方を変えて房になる部分を一緒に編んでしまう「三段切り替え」とでも呼べる編み方だった。色を切り替え、編み物から房に切り替える。編み物ではほとんど見ない技法である。
写真:房も一緒に編むマフラーはドラムで巻き取る。