群馬県桐生市は、京都の西陣と並ぶ織物の町である。遠く奈良時代に京の都から織物の技術が伝わり、後に全国の覇者となった徳川家に引き立てられて繁栄を築いた。明治維新以降、絹織物は富国強兵を目指す明治政府の戦略輸出物資となり、昭和10年代には絹織物の出荷額が政府予算の12%に上ったと伝わる。今に当てはめれば10兆円を超す額である。当時の人口はわずか6,7万人。桐生は羽が生えた札束がうなりを上げて飛び回る町だった。
「この町にね、昔は芸者衆が300人から400人もいたんだよ」
とは、桐生っ子の昔話である。数百人の芸者衆が毎夜のごとくお座敷がかかる。桐生の先人たちは我が世の春を謳歌したに違いない。
織都。桐生の人々は自分たちの町を、自負をもってそう呼ぶ。
だが、奢れるものは久しからず、は世の習いだ。機音が喧噪を極めていた町に、いつか機音が聞かれなくなった
戦後、和装から洋装への移行が急速に起きた。映画の時代劇が好まれなくなった。日米繊維交渉がとどめを刺した。いや、技術は東から西に移ろうのが歴史だ。織物の技術は中国から欧州に移り、アメリカに渡って日本に来た。それがいま、アジアに流れ出している。歴史の必然だ。
分析は多々ある。
「桐生の機屋ってのは商業道徳を知らなかった。仕事がないのでお願いして頭を下げて仕事をもらってきたら、割のいい仕事が来ていた。じゃあ、と割のいい仕事から手を付けて、頭を下げてもらってきた仕事は放っておくなって当たり前だった。自分たちのせいで信用をなくしちまったのさ」
「西陣の下請けに甘んじて、それで笑いが止まらないほど儲けるものだから、自分たちのブランドを作らなかったのが今の衰退の原因だ」
いま桐生は人口が減り続け、高齢化が急速に進む町である。高齢化率は34.01%(2017年4月1日現在)で群馬県下の12市のトップにいる。地元に仕事がない。若者は仕事を求めて都会に出る。残されるのは高齢者ばかりなのである。
そんな桐生に、2009年4月、私は住み着いた。商店街のシャッタータウン化に驚き、町を歩く人をほとんど見かけないことに寂しくなった。この町はどうなるんだ?
2014年、桐生は「消滅可能性都市」のお墨付きをいただいた。
私の故郷は福岡県大牟田市である。炭鉱で栄え、炭鉱で寂れた町だ。町を支えた石炭が採れなくなくなった産炭都市は将来図を描けずに苦心惨憺している。苦心惨憺ぶりは桐生も同じだが、よそ者の私の目には、それでも桐生はまだ恵まれているように見える。この町には、磨けばきっと光るダイヤモンドの原石が数多く残っているのではないか?
次回からは、私の目に映ったダイヤモンドの原石をご紹介していきたい。私が期待を込めて選ぶ「桐生の逸品」「桐生の逸人」「桐生の逸店」「桐生の逸社」(辞書に載っていない言葉をたくさん使いました。ごめんなさい)などである。
お読みいただいた皆様の桐生をご覧になる目が少しでも変わることがあれば、これ以上の幸せはない。
ご愛読いただくよう、心からお願い申し上げてご挨拶とする。