【和裁】
和服を仕立てる一連の工程である。かつて和服は反物の状態で販売され、それを自宅で仕立てるのが一般だった。そのため、第2次世界大戦前までは和裁は女子教育の必須科目だった。しかし、敗戦後は生活全般が洋風化して和服が日常着ではなくなったため家庭内での和裁はほぼ途絶え、いまでは専門職になっている。
反物は通常、幅9寸5分(約36㎝)、長さ3丈(じょう=約12m)で販売される。これで大人の女性の着物1着分である。
仕立てるには反物を裁断しなければならないが、体の線に沿うように曲線を使って立体裁断する洋服と違い、和服のパーツは総て長方形である。そのため型紙はなく、布目に合わせて総て直線に切断する。体が小さくて布が余る場合も一切切り落とさずに縫い込んでおく。成長に伴って着物が小さくなれば仕立て直して大きくなった体に合わせる。つまり、曲線に裁断する洋裁では無駄な端切れが出るが、和裁では捨てる布は全くない。衣服に関する究極のエコシステムである。
世界はいまの時、SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)を求めている。ファッション、衣服は時代の要請を写し取って変わってきた一面がある。無駄を一切出さない和服、和裁のシステムが脚光を浴びる時期がやがて来るのではないかと筆者は考えるが、いかがだろう?
希にミシンを使うこともあるが、基本は手縫いである。和服はかつて、縫い目をほどき、パーツの状態にして洗濯した。ミシンの縫い目はほどきにくい。手縫いはその名残ともいえる。また、布を大事にするための仕立て直しをシステムに取り込んでいる和裁では、縫い目が容易にほどけなければならないことも手縫いの理由である。
縫い目をできるだけ見せない技を使うのも和裁の特徴とされている。
【先代】
岡田和裁研究所を語るには、古い話から始めなければならない。
故・岡田五三(ごぞう)さんがこの研究所を創立したのは、昭和17年(1942年)のことだ。群馬県吾妻郡に生まれ、6歳で岡田流裁縫術の創始者で名人と称されたおじ、桐生の岡田長太郎さんの養子になった。おじが経営する岡田裁縫塾の生徒として厳しい修行が始まったのは昭和6年(1931年)、14歳の時である。「目で見て、頭で覚える」のが職人の技の伝承だった時代、五三さんは大事だと思ったことはトイレでメモし、みなが寝静まる夜中に清書し手残した。文字に起こすとは、断片的な知識の間に論理というロープを張り巡らして知識を体系化することである。この努力が後に和裁に改革を起こす基礎になったことは疑いない。