【横振りミシン】
服の仕立てに、ミシンはなくてはならない道具である。趣味と実益を兼ねてミシンを操っている方もいらっしゃるだろう。しかし、ミシンで何故縫えるのかをご存知だろうか?
ミシンの針は先端に糸を通す穴がある。この穴を通った上糸は針が下に下がると糸を伴って布地を突き抜ける。針が上に上がると、糸は布地との摩擦で布地の下にループ状になって残る。目で見えないミシンの下部には「釜」という部品があり、布地の下に残った上糸を引っかけて1回転しながら、釜の中にあるボビンに巻かれた下糸をループの中に通す。実に巧妙な仕掛けで、18世紀にイギリスで発明された。一般的には縫製ミシンと呼ばれ、布地を自動的に送る機構(「送り歯」)や布地を押さえて縫いやすくする「押さえ」が備わり、正確に素早く縫える。
上下運動を繰り返すだけだったミシンの針を左右にも動かす機能をつけ加えたのは、一説では、19世紀半ば、アメリカの機械工、ウォルター・ハントだった。やがて改良が相次ぎ、ジグザグミシン(千鳥ミシン、ともいう)が生まれた。縫い目の幅を前もって調整できるため、ズボンの裾上げや布の端の始末などにいまでも使われている。これが横振りミシンの原型となった。
ミシンで刺繍をするには、縫う布地を自在に動かさなければならない。それには、まずジグザグミシンから「送り歯」「押さえ」を取り外して布地を自在に動かせるようにする。さらにジグザグミシンでは一定だった針の振れ幅を自由に調整できる機構がいる。そんな改良型ミシンを作った人が桐生にいた。大正時代のことというが、残念ながら名前は残っていない。このミシンを「横振りミシン」という。国内繊維産業が盛んな頃は複数社が製造していたが、いま残っているメーカーはJUKIだけだ。
では、「横振りミシン」は何故桐生で発明されたのか? 桐生の刺繍作家、大澤紀代美さんによると、繊維産業で栄えたかつての桐生では大量の帯が織られた。ほかの帯産地と違って桐生の帯は無地のものが多く、それに刺繍職人さんたちが手刺繍で装飾を施していた。すべて手作業だから生産性は低く、出来上がった帯は高価になる。「それを何とかしようと思ったんでしょうね」と大澤さんはいう。ただ、発明家の名前が残っていないのと同じように、この件についての資料も見付かっていない。
【ミシン職人が驚いた】
大澤さんについては「ミシンの魔術師 大澤紀代美さん」で、刺繍を芸術にまで高めた刺繍作家として紹介した。お読みいただいた方もいらっしゃると思う。
今回は、少し違った視点から大澤さんをご紹介する。ミシン職人としての大澤さんである。
あれは、30人ほどの女工さんを使って工房を経営していた20代のころだった。数台のミシンで頻繁に目飛びが起きるようになった。目飛びとは、布地を突き抜けた上糸が下糸と絡まらず、宙ぶらりんに浮いてしまう事故である。
刺繍作家、刺繍職人は刺繍には詳しいが、その道具であるミシンについての知識は浅い。ミシンが故障すれば、専門のミシン職人に修理を頼むのが普通だ。大澤さんは出入のミシン職人さんを呼んだ。