片倉さんの父・義則さんは、神奈川県平塚市にある県農業総合研究所の研究員だった。研究用の野菜を育てるのが役割である。絶対に手抜きをしない厳密な作業が求められる仕事だ。そのためか、自分に厳しい戒律を課す人だった。その姿勢は息子の片倉さんにも向けられた。手抜きを、中途半端を絶対に許さない。
「これ、できないよ」
と言おうものなら、
「洋一。簡単に諦めてはいけない。お前はすべての可能性を試してみたのか? できないとは、すべての可能性をつぶしてからいう言葉だ」
と叱られた。
夏休みの宿題で出たポスター作り。夏休みの終わり近くにやっと仕上げた作品を父に見せると
「なんじゃこりゃあ〜」
「洋一、手の抜きすぎだ」
「やり直せ」
の3つの言葉が返ってきた。叱られた。深夜までかかって描き直した。この作品が市の作品展に入賞する。
この父ありてこの子あり。「珠」づくりにも現れた、可能性をトコトンまで追究するのは片倉さんが父から植え付けられた特性である。
さて、刺繍で「珠」を作らねばならない。どうすれば糸で「珠」を作れるのだろう。
「珠」にするには糸を重ねなければならない。
重ねる糸は、すべて「直線」である。糸を曲げたら、曲げたところが後で緩んで刺繍がバラバラになるし、そもそもミシンで糸を曲げることはできない。
しかし、直線の糸をどう重ねたら、曲面でできた「珠」になるのか。
頭の中で、すべて直線でできた「珠」を思い描く。その「珠」を平面で切ったときの糸の流れは何となく想像できる。しかし、「玉」は3次元だ。3次元座標でいえば、xyz軸のxy軸については何とかなりそうだが、これに奥行きにあたるz軸が加わるとちんぷんかんぷんだ。
どうやったら「珠」が作れるのだろう。
頭がすっかり混乱して、一度は放り投げた。しかし、父にたたき込まれた、私はすべての可能性を追究してみただろうか、という思いは消えない。
ふっと思いついたことがある。数学で出てくる図形である。
円には無数の接線を引くことができる。逆に無数の接線を引けば、そこに円が現れる。こんな図である。
「珠」にも無数の接線が引ける。だとすれば、無数の接線を引けば、やがて「珠」が現れるはずだ。幸い、接線は直線である。接線をミシン糸に変えれば「珠」が出来るのではないか?
恐らく、数学が得意な片倉さんでなければ生まれない発想だったのではないか。
早速、社内のプログラマー、岡田富士子さんに相談した。刺繍糸をこんなように回すプログラムはできますか?
岡田さんは
「やってみましょう」
と引き受けてくれた。
片倉さんも岡田さんも、勤務時間はOEM(アパレルメーカーや問屋の注文通りに刺繍をする仕事)で忙しい。新製品の開発に使える時間は、1日の仕事が終わる夕方からである。
刺繍の工程をひとつひとつ見直した。刺繍ミシンを制御するプログラム、糸、糸にかけるテンション、針、Aのやり方とBのやり方では、どちらが「珠」に近づくか……。
毎日、夜10時、11時まで2人は刺繍による「珠」作りに熱中した。工場に隣接した自宅に住む笠原社長、奥さんの京子さんは2人に夕食を差し入れてくれた。
写真:社内での談笑風景