いま振り返れば、わずか29歳で日本一になる近藤さんが大器の片鱗を見せたのは、中学校1年生の元旦だった。
ここで少し回り道をする。桐生の生花店の話である。
当時、桐生の生花店は華道教室を兼営するところが多かった。当時の桐生は織物が盛んで、文字通り織都だった。数多くの機屋さんが覇を競い、織機が奏でるジャズのリズムが町を覆っていた。
機屋さんは取引先を自宅で接待するのが習わしだった。座敷の前に広がる庭の手入れに惜しげもなく金銭を注いだのはそのためである。亭主としてそこまで気を使わねばならないとしたら、玄関や床の間に活け花を飾るのは客を迎えるイロハのイだろう。だから機屋さんにとって花を活ける技は必須ともいえた。
「華道を身に着けたい」
という需要が多かったのである。
華道教室もあったが、この需要に商機を見出したのが生花店だった。華道教室を併設したのだ。お弟子さんが増えればその分、花の売上も伸びるからだ。織都桐生の繁栄が生花店を支え、華道教室を兼営する独特の経営形態を作ったともいえる。近藤さんの生家、「花清」は華道の一派、「草心古流」の家元でもあった。
話をもとに戻す。
だから、元旦の清々しい空気の中で新しい年を寿ぐ花を活け、家の中心、床の間に飾るのは近藤家のしきたりだった。
この元旦、
「おめでとうございます」
のあいさつが済むか済まないうちに、父・宗司さんがいった。
「今年の花はお前が活けなさい」
宗司さんがやるものとばかり思っていた仕事が突然、中学1年生の近藤さんに任されたのである。
しかも、その家は前年の12月に完成して引っ越したばかりの新居だった。住み慣れた家が道路拡張のため取り壊されたのが小学校の卒業式の日。それから普請が始まった新居がやっと完成したばかりである。檜の香りも豊かな新居の門出ともなるこの正月を寿ぐ花を、なぜ僕が活けるのだろう? これまで活け花の手ほどきをしてもらったことはないのに……。
いぶかしくは思ったが、父の厳命である。
活けるように指示されたのは、古流活け花の基本中の基本、「御生花(ごせいか)」だった。若い木を使って老木の姿を写し取る技だ。
近藤さんは「花清」の3代目である。創業者である祖父・清さんは近藤さんが小学校に上がる頃から、近藤さんを
「一(はじめ)」
とは呼ばず、
「3代目」
と呼んだ。いずれはお前が店を継ぐのだ、という洗脳教育だったのかもしれない。だからかもしれない。遊びたい盛りの幼い日々、大好きだったプラモデル作りをもっと続けたいと後ろ髪を引かれながらも、店の手伝いはした。いつの間にか「花清の3代目」を、近藤さんは
「いつかはそうなるのだろう」
と受け入れていたのである。
「花清」を受け継ぐことは、父が師範を務める華道教室を受け継ぐことでもある。教室にも出入りし、女性が多かったお弟子さんたちから
「この枝は女の力では上手く切れない。一ちゃん、切って」
といわれれば、ハサミや鋸をふるって手伝った。毎日のように花を活ける祖父や父の手元を熟視するのも習い性になっていた。
だが、それだけである。お弟子さんたちに交じって祖父や父に「華道」教わったことも、個人指導を受けたこともない。いずれは身に着けなければならないのだろうとは思っていたが、この日までの近藤さんは、華道の素人、良くいっても素人に毛が生えた程度でしかなかった。
その私に、この新居での初めての正月の花を活けてみろという。出来るだろうか? 近藤さんは見よう見まねで生け始めた。
写真:近藤さん、店で