日本1のフローリスト—近藤創さん その13 世界一を目指す

1989年、花のワールドカップといわれるインターフローラ・ワールドカップ(Interflora World Cup 1989)が東京で開かれた。世界最大の生花店組織であるインターフローラが1972年に始め、4〜5年に1回開くフラワーデザインの競技会である。フラワーデザインのオリンピックともいえる。
アジアで初めて開かれたこの大会で、日本代表で出場した村松文彦さんがみごと優勝して世界1のフラワーデザイナーになった。
村松さんはこの年、42歳。近藤さんより8歳年上である。

「よし、私も42歳までに世界1になる。村松先輩と肩を並べたい」

近藤さんは、村松さんと肩を並べようと志したのだ。新たな挑戦である。目指すのは1997年のワールドカップ。この大会で優勝すれば、近藤さんは39歳での世界一になる。村松さんより早い。

それまでにも増してフラワーデザインにのめり込んだ。ワールドカップの国内予選に出るには直前4年間の実績が必要だ。8年先を目指して様々なコンテストに出続けた。相変わらず「無冠の帝王」に変わりなかったが、上位入賞は果たし続けた。総合成績で見れば、ダントツのトップだった。

1993年にストックホルムで開かれたワールドカップで、近藤さんがアシスタントとして日本代表に同行したのはそんな実績があったからである。アシスタントは、次のワールドカップで日本代表になる最有力候補が務めるのが慣例だった。1997年の日本代表は近藤さん、と近藤さん自身を含めて誰もが疑わなかった。

1995年は、2年後に迫った1997年ワールドカップ出場者を決める国内予選が開かれた年である。
その年の春、インターフローラ・ワールドカップのアジア大会である第1回アジアカップが台湾・台北市で開かれた。地元台湾を始め、韓国、シンガポール、フィリピンなど7つの国・地域からのフローリストが集まったこの大会に、日本からは直近2年の国内のコンテストでの上位入賞者4人が出た。近藤さんは当然その1人で、最年長である。

初めてのアジアカップで、運営に不慣れがあったのかもしれない。実に不思議な大会だった。
それまで近藤さんが出場したフラワーデザインのコンテストでは出場者が一堂に集まり、制限時間の中で作品を作った。だから花を飾り付ける姿や、制作中に出たごみの後始末など、出場者の姿勢も審査員の採点に響いていた。
ところがこの大会では、地元台湾からの出場者は、自分の作業場で制作した完成品を会場に運び込んだのだ。これでは、いったいどれほどの時間をかけて作り上げた作品なのか、出場者のフラワーデザインに対する姿勢はどうなのか、など分かるはずがない。
もっと戸惑ったのは、運び込まれた作品が、作品を置く台から大きくはみ出していたことだ。他の大会では、作品は台の大きさに合わせることが暗黙の了解だった。

   近藤さんの作品 13

「近藤さん、あれはどうなんでしょう?」

と言い出したのは、日本からの参加者だった。最年長の近藤さんが台からはみ出した作品の是非を審査委員に確かめに行ったのは、自分でも同じ疑問を持ったからだ。しかし、作品のサイズには明文の規定がないとそっけなく告げられただけだった。そうか、作品の大きさの制限は、私たちの勝手な思い込みだったのか?

戸惑うことばかりの大会で、優勝したのは台湾からの出場者である。やはり、というべきか。近藤さんは2位になった。日本人ではもちろん最高位だった。

ワールドカップの日本予選は、その年夏に開かれた。

写真:アジアカップに出場した近藤さん

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