日本1のフローリスト—近藤創さん その16 育成

魂を入れる——近藤さんは毎月1回、県内で講習会を開き始めた。対象は群花協、花キューピットのどちらかに加盟している群馬県内の花屋さんである。自分で講師を務めた。それだけでなく、年に数回は外部から講師を招いた。全国大会で上位に入賞する後進を育てたい!

ゼロに極めて近い地点からの出発である。成果はなかなか出なかった。個人レッスンまでした伊勢崎市の花屋さんが、ワールドカップにつながる花キューピットのジャパンカップで3位に入賞したのは、やっと1995年になってからだった。近藤さんが若手育成に取り組み始めて10年もの歳月がかかったことになる。それから10数年後、日花協(日本生花商協会)のコンテストで優勝したのは草津の花屋さんである。近藤さんの長女メイさんが同じコンテストで2位に入るまでには、それからさらに8年ほど待った。
成果は、少しずつだが確実に現れ始めた。

しかし、近藤さんはいう。

「ホント難しいですねぇ、若手を育てるって。基本は教えることができます。しかしどう工夫をしても、私にできるのはそこまでです。フラワーデザインというのは、最後は感覚の世界ですから、あとは身につけた基本をベースに一人ひとりが自分の感性を研ぎ澄ますしかない。そこは指導が及ばない世界ですからねえ」

では、感性を磨くには何が必要なのか。

「色彩、造形のすべてです。衣服のカラーリング、建築の造形、色、内装色、店舗デザイン、自動車のデザイン……。流行色が年々変わり、色の組み合わせも常に新しくなる。ビルの建築様式も変われば、目新しい店舗が次々に登場し、車はモデルチェンジを繰り返す。時代が求めるものは年々変わります。いまの時代のあらゆるものを見て、触れて、感じて、吸収し、次に来るものを予想して自分で形作る、ということでしょうか。言うは易く行うは難し、ですけどね」

2022年、「花清」の4代目である次男、薫さんが花キューピットのジャパンカップで7位に入賞した。

「ええ、喜んでいます。薫には私を超えて欲しいですね」

2018年、近藤さんはすべての役職を退いた。もう時代の最先端の感性を吸収し生み出すことはできない年齢に達したと自分で判断した。新しい時代を切り拓くのは若い人に任せるしかない。かつての日本1のフローリストはいま、一介の花屋のおやじになった。

近藤さんの作品 16

だが、このオヤジには自分が創作したフラワーデザ

「フラワーデザインの写真集をつくりたい。作家を紹介してほしい」

と花キューピットに依頼し、近藤さんが12人の1人として推薦されて出来た本である。書名を「現代のフラワー・アーティスト 近藤一」という。プロのカメラマンが近藤さんの作品を撮り、美しいカラー印刷で近藤さんが生み出した「美」を伝えている。
その写真集を開いた。「出会い」「やすらぎ」「響き」「うつろい」「喜び」というテーマに分けられて近藤さんの作品が並ぶ。得も言われず美しい。

写真集をめくりながら思った。この造形を産みだした感性はいまでも近藤さんの中に息づき、客の求めで手がけるフラワーデザインに生きている。近藤さんはやっぱり、一介の花屋のおやじではない。

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最後に1つだけ受け加えておく。近藤さんの名前である。
両親にもらった戸籍上の名前は「一」である。だが、両親とも亡くなったあと、「創」に改名した。どちらも「はじめ」と読む。
華道、草心古流の家元として、父・宗司さんは「理宗」の雅号を持つ。それを引き継いだ近藤さんの雅号は長年「理一」だった。

「あまりに簡単すぎるような気がしまして。創にすると、雅号は『理創』になって読みも父の雅号と同じになりますし」

戸籍名までは変えていないが、いまは「創」で通している。
連載のタイトルに「近藤創」と書き、本文では「一」と書いているため、どこかで説明しなければと思っていたが、これまでの文脈では機会がなかったので最後に付け加えた。

写真:近藤さんはおしゃれである

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