桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第13回 山王一実神道の1

森村さんが自宅に「桐生山王一実研究所」の看板をかけたのは2014年1月のことだった。不死の道と桐生新町の謎の斜めの線。その解明に行き詰まった森村さんは、であれば、徳川家康の人生観、世界観までを知らねば、と考えた。そこに謎を解く鍵があるのではないか。取り掛かったのは山王一実神道の解明である。

山王一実神道は天台宗を基礎として生まれた神道の一派で、晩年の家康が帰依したといわれる。極論すれば家康を神にするための宗教ともいえる。
徳川家康が死後、神になることを遺言で残したことは「第11回 世良田東照宮」で書いた。「八州之鎮守」になろうというのである。私は死んだ後も、八州=日本の、鎮守=守り神、になる。
では、何という神になるのか? 長く家康の側近だった金地院崇伝、家康の亡骸を久能山久能寺に祀った神龍院梵舜は「大明神」を押した。梵舜は吉田神道につらなり、吉田神道は神格化のプロ集団である。太閤秀吉は死して吉田神道の手で「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」になった。その前例にならおうというのである。

これに真っ向から反論したのが天海僧正だった。家康公はなぜ吉田神道で「大明神」にならねばならないのか?

最後の決め手は、この一言だったと伝わる。

「豊臣秀吉公が大明神になられた豊臣家は滅亡した。その例にならおうというのか? 家康公は権現の神になるべきである」

2代将軍秀忠は天海僧正の説を採った。こうして家康は山王一実神道によって東照大権現になった。

日本では奈良時代から神仏習合が進んだ。新しく渡来した仏教と、日本固有の神道の一体化を図ったのである。仏が神の姿になって日本に現れるという本地垂迹説が唱えられた。平安末期から鎌倉時代にかけて天台宗を基本として山王神道が生まれた。天台宗の僧である天海僧正がこれに「一実(森村さんは「蓮の実」でり、法華経の教えだと考える。一般的には「唯一の真理、だと解釈されている)」を加え、山王一実神道を提唱した。徳川家康はこの山王一実神道によって神になった。だが、家康が眠る日光東照宮でも長く秘儀とされ、全容ははっきりしない。

山王一実神道の研究を始めた森村さんは寛永寺が編集・出版した「慈顔大師全集」(慈顔大師とは天海僧正のこと)全2巻が発行されていることを知り、国会図書館に問い合わせて研究に必要だと思われる部分をコピーしてもらった。その1つが、上巻81ページから始まる「一実神道秘決」である。

「凡我大法に帰して、山王一実の法を信し、存生の日にもあれ、もしは滅後にもせよ、純一実相の神変に乗して……」

と始まるこの項を、森村さんは現代語訳してみた。

「おしなべて、私は、大乗の仏法を心のよりどころとして、山王一実の法を信仰している。生ある時も、もしくは死後においてでもある。純粋に現象界の真実の姿を極め突き詰め行動すると(一実)、神へと変化する。さらに、その力を重ね合わせ、大明の神呪へと変身・変現し神へと成りたるものは、その身は、必ず如来様のお住みになる常寂光の世界に、仏法を身につけた如来として安住するのである。故に、心身をあらゆる世界に張り巡らし、一実の誓いに全てを任せ、偏りない心を保ち、現世のあらゆる実態に対応して、現実的な富を人々に施せば、あなたの、信仰する姿に、仏は心を動かされ、あなたに、現象界の真実の不思議な大きな利益を授けて下さる。遂には、一実の力により神の世界と自由に行き来する力を自然と身につける事に成功するのである。それ故、それらの実現のために、日本の隅々の神社に舎利塔を布施として供える行いは、正に桓武天皇の尊いご配慮なのである。それ故、たとえ神通変化の力を持つ神々であろうとも、山王一実の法を学び信仰を否定するような輩は、すべて地獄世界に落ち、地獄の神々の手下とされて、地獄の苦しみからは、抜け出せず、遂には悪いことを永遠に繰り返し、過去・現在・未来、即ち三世の神仏の御恵みを独りじめして恨まれ、難事に出会い、災禍を辺りにまき散らし、邪神と成ってしまうのである。これらのことを知った今よりは、王法に立ち返って、天の神、地の神の神秘を崇むる人々は、皆この圓宗即ち山王一実の神道に統一されるべきである」

なるほど、徳川家康はこのような思想に基づいて大権現になったのか。それは何となく分かった。だが、不死の道とはいったい何なのか?
謎は深まるばかりである。

写真:森村さんは自宅に「桐生山王一実神道研究所」の看板を出した。

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