覚成寺はいまでもみどり市大間々町の中心街を外れた山地にある。覚成寺を訪れた森村さんは、もう一つの看板に気が付いた。「覚成寺の歴史」とあり、その中に
「古い時代、この覚成寺は現在地より西北の山中深くにあったが、明治四十五年(一九一二)現在地に移転されたものといわれる」
とあった。
だとすると、天海僧正が家康の亡骸を持って辿ったという「裏街道」は、山中の道だったことになる。天海僧正の生年ははっきりしないが、もっとも有力とみられている天文5年(1536年)だとすると、この時80歳前後である。一説によると天海僧正は108歳まで生きたという長命の人だ。だが、他に勝る体力があったとしても、いまでいえば後期高齢者である。山路は辛かったはずだ。わざわざこのルートを選んだのには訳があったに違いない。いったい何故、天海僧正は苦難の道を選んだのか?
1000人を超える大行列が辿ったのは歩きやすいように整備された街道である。それはできるだけ平坦な土地を通っている。だから、前回掲載した森村さん自作の地図で見るように家康の御霊が神になるために通るといわれる不死の道からは大きくはずれることになる。
天海僧正が裏街道を選んだのは、覚成寺の看板にあったように、家康の亡骸を無事に日光に届けるという目的もあったかも知れない。しかし、出来るかぎり不死の道に沿って日光に行こうとしたのではないか? もちろん、不死の道を正確に辿ろうとすれば山中の道なき道を進むことになる。それは無理だろう。それでも、できるだけ不死の道に沿って歩こうとしたのが、天海僧正が選んだルートではなかったのか?
川越を発ったのが3月27日。整備された街道を歩いた本隊は2日後の3月29日には鹿沼に到着した。鹿沼から日光までは29㎞。わずか1日の行程である。それなのに、本隊はここに4日間も足を止めている。とどまる理由が見あたらない「空白の4日間」である。いったい何故、無駄としか思えない日程を組んだのか?
これも、天海僧正が家康の亡骸を持って「裏街道」を歩いたと考えると謎が氷解する。本隊は、天海僧正の日光到着を待っていたのである。本隊に遺骨がない以上、本隊だけで日光東照宮にたどり着いても意味がない。その前に天海僧正との合流を果たさなければならなかった。
川越から深谷の瑠璃光寺に向かい、世良田の長楽寺、桐生の永昌寺と辿り、ここから山中に分け入ってみどり市の覚成寺を通り、山道を歩き続けた天海僧正は、本隊に比べて日光にたどり着くまではるかに時間がかかったはずだ。とすると……。
鹿沼での、謎の空白の4日間は、本隊が天海僧正の到着を待つ待機時間ではなかったのか。
日光東照宮は毎年5月17,18日の2日間、春季例大祭を催す。神輿を中心に100人の鎧武者、それぞれ50人の弓持ち、槍持ち、鉄砲持ちなど1200人が参道を往復する「百物揃千人武者行列」を見に、毎年多くの人々が詰めかける。久能山から日光へ、家康の亡骸を遷した際の行列を再現したものだという。
そういえば、
「春季例大祭には不思議なことがありまして」
と話したのは、あのコピーを送ってくれた学芸員である。その話によると、東照宮に安置されている3基の神輿は、祭りの前夜、東照宮を出て近くの二荒山神社に遷される。祭りの当日はこの二荒山神社から御旅所になっている四本龍寺まで進む。ここで1200人と一緒になり、参道を東照宮まで行くのである。
学芸員はいった。
「どうして祭りの前夜、神輿を二荒山神社に遷すのだろう、と考えているのですが、よく分かりません」
3基の神輿は祭りの前夜、前夜に東照宮を離れて二荒山(ふたらさん)神社まで降り、当日は四本龍寺で1200人と合流する。
「あっ、これは、家康の亡骸を日光東照宮に納めた様をそのまま再現しているのではないか?」
と森村さんが思いついたのはしばらくたってのことだった。
二荒山神社の御神体は男体山である。ということは、家康の亡骸を持った天海僧正は男体山の頂上に登ったのだろう。男体山は久能山を出た不死の道が行き着く先である。そこから下山して本隊と合流したのに違いない。
「家康の御霊、亡骸は本隊には存在しなかった。だから1200人の本隊は四本龍寺で家康の御霊・亡骸の到着を待って合流し、日光東照宮を目指したのに違いありません」
森村さんに訪れたひらめきである。そう考えれば、全ての辻褄が合う。いや、そう考えなければ、鹿沼での謎の4日間、深谷の瑠璃光寺、桐生の栄昌寺、みどり市の覚成寺に、家康の遺骨を持った天海僧正が立ち寄ったという伝承を説明できないではないか。
そんなことをこれまで唱えた人はいなかった。だが、確かに辻褄が合う。森村さんは、家康が東照大権現という神になった手順を読み解いたのだと、筆者は考える。
写真:歴史の研究は史料との格闘である。これは森村さんが集めた資料のほんの一部だ。