前回まで、森村さんが発掘してきた桐生誕生の姿を綴ってきた。ジグソーパズルに例えれば、何となく全体の姿は浮かび上がってきた。20年にわたる研究の成果である。
だが、まだ見つからないピースがある。
・桐生新町にお稲荷さんで描かれた斜めの線はいったい何なのか?
・桐生の恩人でありながら極悪人とされた大久保長安の実像は?
・山王一実神道の実像は?
それは森村流でいえば、セレンディピティを待つしかない。
では、これまでに手に入ったピースをつなぎ合わせて浮かび上がった、生まれ落ちたばかりの桐生新町はどんな姿・形をしていたのだろう?
まず、桐生新町の町立ては1604年に始まった、というのが森村さんの見方である。根拠は村上直・法政大学名誉教授(故人)の研究資料から見つけた初鹿野加右衛門の記録だ。初鹿野加右衛門は町立てを現場で指揮する技術者で、桐生新町の町立てにも汗を流したと伝わる。その初鹿野加右衛門は17世紀初頭、大久保長安の配下として奈良に駐在していたが、下の表に見るように慶長9年(1604年)だけは奈良にいないのである。
中坊奉行衆一覧 | |
年号 | 奈良在住の長安下代衆 |
慶長5年
(1600) |
大久保藤十郎 初鹿野加右衛門 |
慶長6年 | 大久保藤十郎 初鹿野加右衛門 中坊秀祐 |
慶長7年 | 初鹿野加右衛門 吉村米介 三王五郎右衛門 原田二右衛門
中坊秀祐 北見勝忠 豊嶋忠次 |
慶長8年 | 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 北見勝忠 |
慶長9年 | 原田二右衛門 吉村米介 |
慶長10年 | 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 大久保藤十郎 |
「桐生新町の町立ての日程には3つの説があります。この1604年説はその3説には入っていないのですが、町立ては事務官僚ではできません。町立ての技術者だった初鹿野加右衛門がこの年、桐生に来ていたと考えれば辻褄が合います」
町立てがお稲荷さんを目印に使って進められたに違いないことはすでに書いた。しかし。何の必要があって、渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に新しく町を作る必要があったのか?
「日光東照宮に至る山入りの地、としてここが重要だったからです。天海僧正は天台宗の僧でもあります。天台宗で最も苛酷な修行は険しい山道を1000日歩き続ける『大峯千日回峰行』です。天台宗では山を歩くことは神聖な行為なのです。それを考え合わせると、徳川家康と天海僧正は、聖なる山中に入る入口、日光東照宮に至る入口、聖なる町として、桐生新町を作ったと考えれば、桐生が何故徳川家に厚遇されたのかなど様々な疑問が氷解します。徳川家康はこの地を『安楽土』にしたかったのではないでしょうか」
その上で森村さんは、家康の亡骸を運んだという天海僧正の足取りを想像してみた。
「桐生が山入りの地だとすると、ここから山道を通ってみどり市の覚成寺に行ったはずです。桐生市の吾妻山の中腹には下権現と呼ばれるところがあり、頂上を上権現といいます。上権現には吾妻権現という小さな神社がありました。天海僧正が大権現である家康の亡骸をお守りして通ったから、権現の名が残ったのに違いありません」
日光東照宮に至る、聖なる山道の入口。だから桐生は「特別な町」だと森村さんは自慢するのである。
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2013年、東京・府中の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で1本の太刀が見つかった。桐生新町の町立てを現場で指揮した大野八右衛門が死の前年、慶長18年(1613年)に奉納したものである。翌2014年は八右衛門没後400年だった。この年、桐生市で開かれた桐生町立て祭にこの太刀が貸し出され,1日だけ公開された。
この太刀は、何故か「御蛇丸」と名付けられ、いまでも「御蛇丸」として大国魂神社に所蔵されている。
「御蛇丸? それは違うのではないか?」
と言い出したのは、森村さんである。聞くところによると、やたらと長い刀だからこの名がついたという。
「でもね、この太刀の名は茎(なかご=刀身の柄の中に入った部分)にちゃんと書いてあるんですよ。誰も気が付かなかったのかな」
その茎に刻まれた文字は次の通りである。
奉納武州惣社 六所大明神𠝏
願主當國之住 大野八右衛門
一男 八郎兵衛尉
「どうです? この太刀の名前は『六所大明神𠝏』と明記してあるじゃないですか」
そして、刀身に刻まれていた銘文も森村さんの注意を惹いた。
諸佛救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力 如我昔所願 今者己満足
前の4句は法華経の有名な一節である。現代語に訳すれば
「世の人々を救おうとする諸々の仏たちは、偉大な神通力を持っており、みんなを悦ばそうと、計り知れないほどの神通力を現された」
とでもなろうか。仏への感謝の気持ちを表したくて法華経を引いたのだろう。
太刀を奉納した大野八右衛門の気持ちは。最後の2句である。森村さんはこんな訳を付けた。
「私が昔から懐いていたこのような願いをいま成し遂げたのだ。私の心は悦びに満たされている」
奉納の時期から見て、「昔から懐いていたこのような願い」とは桐生新町の町立てを指しているのに違いない。大事業を無事に成し遂げた安堵、悦びが伝わってくる言葉だ。
「私はこのようにして産声を上げた桐生で生まれ、育ちました、どうです、桐生ってすごい町でしょ?」
ふるさと桐生は、森村さんの誇りなのである。
写真:裏の畑で作物を育てる森村さん