ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第2回 日中の架け橋

日本と中華人民共和国が国交を回復したのは1972年9月のことである。

日本が仕掛けた無謀な戦争が仲を裂き、第二次世界大戦後の中国に誕生した共産主義政権、長く世界を東西に二分した冷戦が「仲直り」を阻み続けた。中華民国(台湾)との間では平和条約を結ぶことが出来たが、中華人民共和国とは隣国であるにもかかわらず行き来できるドアがなく、声を掛け合う小窓すら存在しなかった、法的には戦争状態がそれまで続いていたのである。

当時の田中角栄首相の訪中で、その異常な関係が終わった。日本国民の多くが戦後の平和を実感した瞬間だった。

日中にやっと開かれたドア。
大澤紀代美さんの刺繍画が、そのドアをこじ開ける一助になったのは同じ1972年のことだった。

「紀代美、周恩来総理の肖像画を刺繍でつくって欲しいといわれたんだが」

父藤三郎さんに声をかけられたのは、春の息吹がやっと桐生にも訪れようか、という時期だったと記憶する。
刺繍で肖像画を縫い上げる仕事は、大澤さんが独自に始めた。やがて人が知るようになり、それまでも注文に応じて年に4、5枚は縫ってきた。

「また注文が来たのか」

軽い気持ちで引き受けた。
引き受ける気持ちは軽いが、仕事には万全を期す。

まず、写真がいる。それも、いろいろな角度から撮ったものが欲しい。肖像を描くのだから、本人に似ていなくては話にならないからだ。
だが、大澤さんは似ているだけの肖像刺繍を縫う人ではない。本人に似せるだけなら写真に勝るものはないのである。刺繍で肖像画を描く以上、写真では表現が難しい、その人の「本質」まで糸で縫い上げなければ意味がない、と考える。だから、周恩来総理についての本も読まなくてはならない。読んで、確かな周恩来像を築き上げなければミシンには向かわない。大澤さんはそう考える刺繍作家である。

だが、まだ中華人民共和国とは国交がなかった時代だ。周恩来総理の写真を掲載する雑誌は数少なかった。探し始めてもなかなか見つからない。思いついて、いつか取材に来てくれた共同通信の記者に

「あなたのところには報道用の保存写真があるんじゃない?」

と聞いてみた。彼は二つ返事で引き受け、間もなく数枚の写真を持ってきてくれた。

本も探した。しかし、ない。今回は諦めざるを得ないらしい。であれば、手元にある写真だけから人物像を引き出さねばならない。写真とにらめっこの毎日が続いた。

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