趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第6回 文武両道

佐藤さんは桐生の生まれではない。湯沢温泉のすぐ近く、秋田県雄勝郡羽後町で昭和19年(1944年)4月に生を受けた。11人兄弟の10番目、農家の6男坊である。

いまでも一つもダムがない雄物川がすぐ近くに流れ、毎年鮭が登ってくる。佐藤さんは小学校時代、

「最高に優秀なガキでした」

と照れもせずにいう。学校の成績は、

「音楽を除けばオール5」

が自己申告だ。勉強が出来ただけではない。学校対抗のリレーでは上級生を追い抜いてチームに優勝をもたらすほど足も速く、

「ええ、文武両道ですよ」

もっとも、「武」を轟かせたのは運動会だけではない。誰もが知る札付きのガキ大将でもあった。毎日子分を引き連れて野原を走り回り、雄物川では子分たちを手足に使って鮎や鮭、鰻を捕まえては近くの料亭に持ち込んで金に換えた。イクラをたっぷり抱いた鮭は1匹1000円、天然物の鮎は250円で引き取られた。1日の小遣いは5円、多くて10円が当たり前だった時代だ。小学生には相応しくないほどの現金収入である。

「だから、小遣いには不自由しなかったなあ」

親にスキー板をねだり、聞き入れてもらえないと一計を案じた。

「あれ、スキー板に似てるよな」

「あれ」とは、墓地に数多く建てられている卒塔婆である。そっと墓地に忍び入り、適当な長さの卒塔婆を2本引き抜いて持ち帰る。自転車のタイヤのチューブを加工して足止めを作ると坂を求めて外に飛び出した。

そんな佐藤さんが最も得意にしたのが、図画工作の時間である。父の松吉さんは絵がうまく、いろりの炭でよく馬の絵を描いてくれた。

「そんな親父の血が流れていたからかね」

という佐藤さんの図工の成績は、

「5点法で6点か7点だったよ」

というほど好きだった。
4年生か5年生の時、映画館で見た「喜びも悲しみも幾年月」にすっかり感動した佐藤さんは灯台を造ろうと思いつく。近くで鉄くずを拾い集め、高さ1メートルの灯台を仕上げてみたが、それだけは物足りない。

「灯台は光線がグルグル回らなくっちゃ面白くない」

と、いつもは鉄くずを拾い集めるのに使っていた磁石(ラジオのスピーカーから取り外した)とエナメル線をグルグル巻いた釘でモーター作った。懐中電灯のレンズを4枚用意して灯台の一番上の四方にはめ込み、モーターの力で中の電球を回す。部屋の電気を消して灯台のスイッチを入れると、みごとに灯台の灯りが360度回って本物そっくりになった。

6年生になると丸太をコツコツとくり抜き、南極観測船「宗谷」に挑んだ。子ども雑誌に掲載された写真を見ながら、全長1mの大型船に仕上げ、綺麗に塗装したのはもちろん、灯台に使ったモーターを取り外し、この「宗谷」に取り付けてスクリューを回したのはいうまでもない。

夏、余りの暑さに扇風機の自作を試みた。10mほど離れた運河で回る水車を利用しようというのである。自宅の柱に滑車を固定し、水車とロープで繋いで回転するようにした。3枚のうちわをそれぞれ120°の角度になるように固定した木片をその滑車に取り付けた。水車が回れば滑車が回り、3枚のうちわが風を送ってくれる仕組みである。

もちろんこの頃、佐藤さんは自分が後にからくり人形師になることなど夢にも思ってはいなかった。が、片鱗はこの頃から姿を現し始めていた。

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