「桐生からくり人形研究会」はその後、「桐生からくり人形芝居保存会」と名前を変え、いまでも活動中である。会員数は約80人。毎月第一土曜日にからくり人形芝居館で定期上演するのは会員たちだ。
頼まれれば、出張上演もする。忠臣蔵などほとんどのからくり人形芝居は12畳もある広い舞台が必要なので、3畳ほどの移動用舞台を作った。広い舞台があって初めてからくり人形に物語を演じさせることができるが、狭い舞台では芝居のストーリーを構成出来ない。からくり人形の動きを楽しむ程度になってしまうが、持ち運ぶ利便性を考えて諦めた。
ところがいま、佐藤さんは保存会の会員ではない。研究会の第一期会員であり、桐生からくり人形芝居で使われる人形はすべて佐藤さんが作り出した。からくり人形を操らせても
「はい、私ほどうまく操れる人は、このあたりにはいませんよ」
と自負しているのに、何故か佐藤さんはいま、伝統の桐生からくり人形芝居の蚊帳の外にいる。
2010年のことだった。保存会が出張上演を引き受けることを知った東京・浅草から忠臣蔵をやって欲しいと頼まれた。桐生のからくり人形芝居は、元はといえば江戸の文化だ。21世紀の今になっても、何となく江戸の情緒を保っている浅草からの依頼である。
「ふるさと、花のお江戸に錦を飾る」
と思った人がいたかどうかは分からないが、保存会は喜んで引き受けた。そして、持っていくのは移動用、3畳の舞台だと決めた。
すべては、佐藤さんがいない場所で決められた。佐藤さんには報告も連絡もなかった。すべてが決まった後で知った佐藤さんはカチンと来た。
佐藤さんは激情家である。これだ、と思ったことには脇目もふらずにトコトンのめり込む。中途半端は許さない。だからこそ、佐藤流とでも呼びたくなる独自のからくり人形を数多く作ることができた。
だが、脇目も振らずにのめり込めば、しばしば視野が狭くなり、周りの人の話が耳に入らなくなる。
桐生からくり人形芝居保存会、とはいえ、佐藤さんを除けばからくり人形には素人も同然の人々の集まりである。桐生からくり人形芝居の復元に血道を上げるに至っていた佐藤さんには、そんな周りの人たちの言うこと、することがユルくて仕方がないものに写ったとしても、誰を責めるわけにもいかない。
「あんたら、そんなことで桐生からくり人形芝居を復元出来ると思っているのか!」
という一物を常に心に抱えるようになった佐藤さんは、研究会の中で衝突を繰り返した。いつしか敬遠されるようになり、孤立していったのは起きるべくして起きたことである。そんな流れの果てに起きたのが、佐藤さんがいない場で決まった浅草公演だった。
「知って、ムッとしましたよ」
と佐藤さんは当時を振り返る。
「出張上演を引き受けたことは、まあいい。でもね、移動用の、3畳の舞台を持っていくっていうでしょ。私は頭に来ちゃってね。だから言ってやったんです。そんなものを持って行くのは桐生の恥だよ、って。江戸の文化をいまに受け継ぐなんて言うけど、移動用の舞台では、桐生のからくりはその程度かって馬鹿にされるからやめろって言ったんです。ねえ、浅草でやるんなら12畳の大舞台でやらなきゃ。あの大舞台だったら、どこにでも胸を張って出せるものなんですよ」
だが、一度決まったことが覆ることはなかった。
「だからね、そんなら勝手にやれ、俺は恥をかきたくないから辞める! て宣言して飛び出しちゃったんです。あとはあの人たちが勝手にやってるから、私は知りません」