桐生市の目抜き通り、本町通は南北に走る長さ2.5kmにも及ぶ直線道路である。いまでこそシャッターが目立つ地方都市の一風景にすぎないが、桐生が織物で繁栄を極めていたころは大きな店構えの商店が軒を連ねてひしめき合い、人通りが絶えなかった。桐生近郊の人々はここを「おまち」と呼び、出向くときは下着まで取り替えて晴着を着込み、いまの東京・銀座にまさるとも劣らぬ人混みを楽しんだ。
その本町通の北の端に桐生天満宮がある。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父とされる第12代の景行天皇の時代に起源を持つと伝わる。寛政5年(1793年)に落成したいまの社殿は当時の建築装飾美術の粋を集めたといわれ、群馬県指定の重要文化財である。
この桐生天満宮を起点に、本町通は1丁目から6丁目に向かって南に下がる。
その火は、天満宮から800mほど南に下がった3丁目の北端にあった綿屋、せんべい屋、座布団屋が入った長屋から出た。明治31年(1898年)5月12日、町が目覚め始めた午前7時20分のことだったと記録に残っている。
もう120年以上も昔の火事である。いま3丁目を歩いても火事の痕跡はひとかけらもない。出火原因も損害額も調べた限りでは分からなかった。火事で焼け出された人、目撃した人はすべて鬼籍に入っているのだから、いまさら調べようもない。
それでも猛火の記憶が残る家もある。3丁目の燃料商、原勢商店である。店主で町会長も務める原勢隆一さんは、
「親父から聞いたんですが」
と話し始めた。
その日は早朝から強い北風が吹いていた。その風が火勢を煽ったらしい。3丁目に立ち並ぶ木造家屋は北から南にかけて次々に火に包まれた。
このあたりは当時桐生新町と呼ばれ、桐生町の一角だった。突然の大火に、発足したばかりの桐生町の消防組合だけでなく、近隣の堺野村、相生村、大間々村、黒川村からも消防の応援が駆けつけ懸命の消火作業を続けたが、なかなか火勢は衰えない。隣家から隣家へと燃え移った火は63戸を全焼、5戸を半焼した(被災家屋は79戸、罹災者は294人という記録も残っている)。
原勢さんはいう。
「ええ、うちも全焼だったそうです。それで、やっぱり火事は怖いということになって、焼け跡に建て直した店舗兼住居は防火仕様にした。はい、厚さ30cmもある土壁でできた土蔵造り(注:冒頭の写真を参照して下さい)にしたんです。いまでもそのままですよ。なんでも、その後に起きた火事の時は土壁の外に張った板は類焼で焼けたが、土壁はそのまま残ったそうです。それがいまに繋がるわけです」
火事は、いまも3丁目の本町通沿い、八百友商店の敷地にひっそりと鎮座する「新田不動尊」の手前で鎮火した。
「それでね、新田動尊の御利益はすごいものだ、ということになって、参拝客や信者が急増したそうですよ」
火事と喧嘩は江戸の華、という。江戸で流行った竹田からくりの後継者として江戸の文化を受け継ぐと自負する桐生にも、花だったかどうかは別として、火事は多かった。なにしろ、当時は木造家屋である。加えて、絹織物で繁栄を極めていた桐生の中心部だから、家と家の間にはほとんど隙間がない。それに、名物赤城おろしが吹く。明治4年、350軒に火の手が広がった4丁目の火事、明治8年には1丁目、2丁目を焼き尽くした「あかまや火事」、明治35年には1丁目の57戸を消失した火事が発生、明治36年には桐生警察署までが焼けた。
だが、この明治31年の大火は桐生に思わぬものをもたらした。桐生西宮神社と、関東一の賑わいを誇る桐生えびす講である。
だが、火事が何故そんなものをもたらしたのだろう?