桐生えびす講 その3 翁鉾

たった一例だけで

桐生の逆バネ

こちらを向いたのが「翁鉾」

とは大げさすぎる、と思われる方もあるかも知れない。実は、筆者が知るだけでも、もう一つ実例がある。桐生えびす講から少し外れるが、それを紹介したい。あの大火で町を総なめにされた本町3丁目の

「翁鉾」(冒頭の写真)

である。

いまも桐生の夏の祭典、桐生祇園祭に使われる「翁鉾」は文久2年(1862年)の祇園祭でデビューを飾った。最上部に身の丈2mほどもある翁の面をつけた人形(源頼朝の像だといわれる)がすっくと立ち、全高は7.5m。金箔を張り巡らせた龍の彫り物が施された偉容は、往時の桐生の勢いをしのばせるに十分だ。桐生祇園祭では多くの引き手に引かれて本町通を静々と巡幸する。祭りの2日目の夜、南隣の本町4丁目の「四丁目鉾」(明治8年=1875年作)と行き違う「曳き違い」で桐生祇園祭の賑わいは頂点に達する。

「翁鉾」ができた文久2年、桐生には一触即発の不穏な空気が流れていた。仕事がない、暮らしていけない、という不満、憤懣、不安が渦巻いていた。きっかけは、

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」

という狂歌で知られるペリーの来航である。

はるばるアメリカからやって来た四隻の蒸気船の開国圧力に屈した江戸幕府は鎖国政策を放棄し、安政6年(1859年)、横浜、長崎、函館の港を米・英・仏・露・蘭の5カ国に開港した。それが尊皇攘夷を唱える討幕派の志士たちを刺激して討幕運動が激しくなり、明治維新につながったというのが歴史の流れである。

その大きな流れの中で、桐生は思っても見なかった苦難に直面する。絹織物の町桐生に、原料である絹糸が回ってこなくなったのだ。

それでなくても数年前から繭の不作が続き、安政6年の春には生糸が5割も値上がりしていた。そこへ、開港と同時に生糸の輸出が始まった。この頃、生糸を輸出すると国内で売りさばく数倍の利益が生まれていた。そのため、生糸商は手持ちの生糸のほとんどを輸出に回した。おかげで国内の生糸価格はうなぎ登りになり、夏には2倍、秋冬には3倍にも高騰した。これでは仕事にならない。

桐生の旦那衆は何度も生糸輸出の禁止を幕府に願い出た。ついには時の大老井伊直弼、老中間部詮勝(まなべ あきかつ)に直訴に及ぶ。それでも生糸価格は下がらず、桐生では、生糸商が輸出用に大量の生糸を買い集めているから生糸が手に入らないのだ、という噂が飛び交い始めた。お救い米で食いつなぐまでになっていた職人たちに不穏な動きが出始めたのも無理からぬ事だった。

万延元年(1860年)、桐生祇園祭は、6町が万灯を飾るだけの質素なものになった。翌文久元年はその万灯を出したのも1町だけという寂しさで、加えて米の価格も急騰した。桐生はどん底まで追い詰められた。

そして文久2年。この年の天王番(祇園祭を取り仕切る町内)は本町3丁目だった。その3丁目が祭りの準備のために4月30日に開いた町会で、突然

「桐生には鉾がない。この際、鉾を作ろうではないか。それも後々まで使える半永久的なものがいい」

と衆議一致したのである。

もちろん、事前に組んでいた予算で足りる話ではない。町会の予算は倍増され、豊かでない人にも5割増しの負担を求めた。それをみんなが受け入れた。

最も贅をこらしたのは龍の彫り物だ。彫り物名人の名をほしいままにしていた石原常八に依頼した龍の彫り物は、全体に金箔を施した。新調の鉾は6月23,24日の2日間、町を練って見物客を惹きつけた。

以上が桐生に残る歴史だが、あの壮大な翁鉾がたった2ヶ月足らずでできるはずがない。準備はもっと前から進められ、数年前には発注されていたはずだ。つまり、桐生が塗炭の苦しみを嘗めていたさなかに贅をこらした翁鉾の建造計画は始まったはずなのだ。

これも

桐生の逆バネ

ではないか?

これで納得していただけただろうか?

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