えびす講とは、一方では神社の神事である。旧暦10月は別命「神無月」と呼ばれる。すべての神様が出雲大社に集まって会議をする。この間、それぞれの神社は神様が留守になるのでこう呼ばれる。だから、全国の神様が集まってくる出雲では、同じ月を「神在月」という。
本当にすべての神様が自宅を留守にするかというと、実はそうでもない。えびす様だけは出雲への団体旅行に出かけることなく、しっかりと留守番をする。だから神無月にえびすの神を祀る神社で
「留守番ご苦労様です」
と感謝を捧げ、合わせて五穀豊穣、商売繁盛などを祈願するのだ。桐生西宮神社は旧暦に合わせ、毎年11月19日、20日に「えびす講祭礼」を執りおこなう(これとは違う言い伝えが残る地方もある)。
だがえびす講は他方で、神社の経営マインドが現れたイベントでもある。
「神様にお詣りするだけではちと寂しかろう」
と考えたのかどうかは分からないが、この2日間、参拝客だけではない人の賑わいを創り出そうというプランナーが神社関係にいたらしい。本来は神事であるえびす講を、気持ちがワクワクし、身体がソワソワと動き出す楽しいお祭りにしてしまったのである。
境内に芝居小屋や見せ物小屋を出し、役者や歌手を招いてたくさんの人たちを惹きつけた。できた人の波は商いにとっては福の神である。地元商店は我も我もと神社のまわりに屋台を出し、本店ではえびす講協賛のバーゲンセールを開く。やがて人の渦に引かれて街露商も次々と店を出して華やかな祭り気分を盛り上げた。
神商一体、とでもいおうか。
神殿内に店を開く商人たちに
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」
と怒りの声を揚げて追い払ったのはイエス・キリストである。
えびすの神は
「きばりなはれや。儲けなはれや」
と背中を押してくれる。実におおらかな神様なのだ。
桐生に西宮神社を招き、桐生えびす講を立ち上げた先人たちも、えびすの神に押されるようにきばり、儲けを心がけた。明治34年、第1回のえびす講では相撲が興行された。その費用は30円(先の1円=2万円に従えば、いまのお金で60万円)かかったと記録にある。翌年の第2回では興行師を起用し、子供たちによる賑やかなお囃子がついた花山車(はなだし)が登場して祭りを盛り上げた。こちらには50円が支払われているから、いまに直せば100万円である。
こうしたイベントを挙行するには、原資がいる。だから先人たちは収入確保にも意を配った。桐生西宮神社の信仰組織として「請」を育てたのである。栃木県や埼玉県、また群馬県内でも遠いところには、10人が一組になってその1人が代表して桐生西宮神社の神事に参加する「代参請」を組織した。毎年桐生まで足を運ぶのは難しくても、10年に一度ならそれほどの負担にはならない。そして、桐生とその周辺では「一人請」である。
「代参請」で出向いた人には、第1回えびす講では金色の恵比須大黒像を贈呈し、御神酒と折り詰め寿司の昼食でもてなした。2回目以降も毎回変わった「福の神グッズ」を用意した。
こうした工夫の成果だろう。明治34年には1000人だった請員が、翌35年には2000人に倍増している。広告宣伝費を使いながら収入増を図る。企業経営のノウハウがここにも活かされていたのである。
だが、それでもえびす講の運営は大変だったらしい。
いま、えびす講を運営する世話人会の代表(これを「総務」と呼ぶ)の岡部信一郎さんは世話人になりたてのころ、えびす講の間は裏方として忙しい世話人に弁当を出すことにした。すると、長く世話人を務めていた父に注意を受けた。
「弁当なんて贅沢だ。俺が世話人の頃はサンマを買ってきて七輪で焼き、それをおかずに飯を食って経費を減らしたもんだ」
入るを量りて出ずるを制す、は商売の原点だ。こうした先人たちの努力と工夫が、今年119回目を迎える桐生えびす講を支えてきたのである。