日本1のフローリスト—近藤創さん その8 フローリスト養成学校
「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが 「花の清さん」 と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかった...
「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが 「花の清さん」 と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかった...
近藤さんは、活け花にはある程度の自信があった。中学生で父に学び、高校生になると手ほどきを受けることもなくなっていたからである。お前に教えることはもうない、と認められたということだろう。 だが、その父が、生花店が生き延びる...
大器がいよいよ姿を現したのは、大学2年生の夏のことだった。夏休みで帰省した近藤さんに、父・宗司さんが声をかけた。 「おい、今年は新潟でJFTD主催のフラワーデザインのコンテストがある。俺は出るつもりだが、どうだ、お前も出...
使ったのは、まだ2、3年ものの松の若木である。この若木を使って松の老木を写し取らねばならない。駆使したのは「矯(た)め」と呼ばれる手法だ。 松も、若木はほぼ真っ直ぐに伸びている。一方の老木は曲がりくねって、いかにも年老い...
いま振り返れば、わずか29歳で日本一になる近藤さんが大器の片鱗を見せたのは、中学校1年生の元旦だった。 ここで少し回り道をする。桐生の生花店の話である。 当時、桐生の生花店は華道教室を兼営するところが多かった。当時の桐生...