だが、ここも1年ほどで離れる。
「何かが違う」
そんなボンヤリした思いが背中を押し続ける。すでに20代も半ば。もう3つも会社を渡り歩いた。さすがに、
「今度は続けられる仕事を探そう」
と考えた。
同時に、服を売るだけではなく、製造もしてみたくなっていた。
「そんな仕事はないか?」
新聞広告で企画会社が見つかった。東京のメーカーから仕事受け、染色、縫製、刺繍などを桐生の工場に出していた。
入社すると新規事業を任された。小売店を立ち上げて取引先である東京のショップと同じ商品を並べる。桐生が1号店だ。君がやってくれ。
1980年代後半のことだった。店長兼店員で部下はいない。
世はバブル済の真っ盛りだった。東京のショップではオリジナル・ブランドの商品をはじめ、独自に発掘したインポートものが芸能人やスタイリストにもてはやされた。
だが、同じ商品を並べても桐生ではほとんど売れない。桐生は東京と肩を並べるファッションの最先端地ではなかったのか? いま振り返れば、織物で繁栄を謳歌してきた桐生が、今に続く衰退に足を踏み込んだ時期だったのかも知れない。
「何とか形ができるまでに1年半ぐらいかかりました」
桐生店が軌道に乗った。勢いづいた社長は、足利、桐生、伊勢崎、前橋と出店を続けた。1号店を軌道に乗せた二渡さんが総てを任され、店が動き出すまでそれぞれの店で店長を、軌道に乗せたあとはマネジャーを任された。
「洋服屋になりたいのに、仕事は事務処理ばかり。何か違う……」
会社に不平や不満があったわけではない。でも、小さな「?」がまたもや積み重なり始めた。
「これが、俺のやりたいことなのか?」
30歳を目前に4度目の自主退職に踏み切った。そして、これが最後の退職になった。