デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第3回 「000」ブランド

「000」というブランドが誕生したのは2010年ことだ。
刺繍業とは下請け業である。景気の陰りをいち早く受け、景気の好転は遅れてやって来る。常に同業他社との価格競争に晒され、利益率は圧迫され続ける。
だから、消費者に直接届く独自ブランド製品を持ちたい、市場で勝負したい、消費者と直接向き合いたい、と笠原康利社長(当時)は願い続けた。そうすれば利益率は上がり、自社で生産計画が立てられ、経営判断もできる。

そう思い続けていたところへ、モーダモンで「KASAMORI LACE」のアクセサリーが大きな反響を呼んだ。

「これなら市場で勝負できる製品になる。ファクトリーブランド商品に育てることができる!」

      「000」のロゴ

と決断して「000」ブランドを立ち上げたのだ。そして、独自ブランドを欲しがったのは笠原社長だけではない。まだ一介の刺繍職人でしかなかった片倉さんの思いでもあった。独自ブランドで、デザイナー、クリエーターとしての腕を存分にふるってみたい。

「000」を名乗るのは、モーダモンで好評だった「KASAMORI LACE」のアクセサリーである。だが、当時笠盛と契約していたブランディング・アドバイザーは

「ブランドを普及させるのに、商品が1つでは弱い。もう1つあった方がいい」

とアドバイスした。それなら、と笠盛はもう一つの得意技であるレーザーカットを駆使した高級クッションを「000」に加えた。

  2011年のライフスタイル展•。クッションが展示の中心だ

「000」のデビューは2010年初夏のインテリア・ライフスタイル展である。売れた。とはいえ、「笠盛」の総売上の1%にも満たなかったが、初めて世に問うオリジナルブランド商品としては、期待以上の売れ行きだった。特にクッションが売れた。
2011年、アクセサリーは売上を伸ばした。ところがあれほど売れたクッションは需要がしぼんだ。
2012年、アクセサリーはさらに勢いを増した。しかし、クッションの売れ行きはますます落ち込んだ。

「何故だ?」

社内で何日もかけて議論した。見えてきたのは、クッションのほとんどは住宅メーカーに買い上げられたことだった。住宅展示場用らしい。笠盛のデザイン力を活かした高給クッションは、住宅展示場のモデルハウスに置かれて住宅の高級感を醸し出す道具になっていた。高い評価を受けたとはいえる。だがモデルハウスの数には限りがあるから、需要が一巡して売上がバッタリ止まったのだった。

クッションも「000」の柱の1つである。年々減っているとはいえ、売上げもある。家庭への普及をねらって値下げするか。それとも、撤退するか。
しかし、素材を選び抜き、手間も暇もかけなければできないクッションだ。いまの価格を通さなければ赤字になってしまう。笠原社長も片倉さんも悩んだ。

「クッション、やめてもいいんじゃない?」

立ち話でそう言ったのは、仲間の高橋裕二さんだった。オランダで勉強した後、日本の大手デザイナーブランドで働いて笠盛に来た頼りになる男である。

「そうだよね。アクセサリーとクッションが同じブランドじゃ、お客さんだって戸惑うでしょう」

という仲間もいた。フッと2人からモヤモヤが晴れた。そうだ、「笠盛」の本業は、一番得意なのは、刺繍なのだ。自社内ではできない工程もあるクッションは、「笠盛」の本業ではない。よし、クッションはやめよう!

「000」ブランドを担うのは、ケミカル刺繍のアクセサリーだけになった。だが、伸びているとはいえ、売上は「笠盛」の屋台を支えるほどの額にはなっていない。いまの紐状のアクセサリーでは限界がありそうだ。

片倉さんは考え込んだ。

写真:「000」に使う糸の在庫の前で片倉さん

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第2回 モーダモン会場で

糸だけでできた「珠」が連なったアクセサリー、「000」のスフィアシリーズがデビューしたのは2013年、東京・ビッグサイトで開かれたインテリア・ライフスタイル展だった。
それまで「珠」を刺繍で作るのは無理というのが刺繍界の常識だった。その常識を打ち破った製品に、片倉さんたちは「スフィア(Sphere=球体)」の名前を与えた。誇らしい成果をネーミングに込めたのである。

長い道のりだった。
刺繍は長い間、服の添え物でしかなかった。打掛の豪華な刺繍も、一世を風靡したアーノルド・パーマーの傘の刺繍も、衣服の部分品でしかない。刺繍業という仕事はアパレルメーカーや問屋から来る注文を、注文通りに、あるいは注文主の期待以上に仕上げる「技」の世界だった。

しかし、片倉さんはそれに飽き足りなかった。

「糸でアクセサリーを作れないか? 服の従属物でなく、服と響き合って新しい美を生み出すものができないか?」

片倉さんの脳裏に、そんな思いが湧いたのは2008年、パリで開かれた服飾資材の展示会「モーダモン」の会場だった。「笠盛」は前年から、

「ものづくりは日本。日本の機どころ桐生の、「笠盛」の技術で世界に打って出る!」

   ビップ・プロダクツに選ばれた作品

と、モーダモンへの出展を始めていた。
ほとんど何の準備もなく、おっとり刀で参加した1年目。ケミカル刺繍を大胆に使った「KASAMORI LACE」が、主催者が選ぶ今年の逸品ともいえる「ビップ・プロダクツ」に選ばれる名誉を得た。「ケミカル刺繍」は、「笠盛」の得意技だった。
しかし、残念ながら売上はふるわなかった。2年目のこの年、片倉さんは

「どうしたら売れるものが作れるか」

という課題を抱えて会場を歩き回っていた。

アクセサリーのコーナーだった。目を惹くものがあった。金糸を使った紐状の「KASAMORI LACE」とゴールドチェーンで2重の輪を作ったネックレスである。
それまでアクセサリーでは、糸は宝石や真珠、金、銀を繋ぐための紐でしかなかった。しかし、いま目の前にあるネックレスは、金と「KASAMORI LACE」が美しいハーモニーを奏でている。

このデザイナーには確か、「KASAMORI LACE」を納品した覚えがある。自分たちが作った「KASAMORI LACE」が、思いもつかなかった使われ方をして金のチェーンと響き合っている。

「糸にはこんな使い方もあったのか」

衝撃だった。目が醒めるような思いがした。そうか、だったら刺繍で、糸だけで、アクセサリーが作れるんじゃないか?

その思いは翌2009年のモーダモンから花を咲かせ始める。1年間工夫を加えて、ケミカル刺繍で音符やサークルがつながった紐状に仕上げた「KASAMORI LACE」が大きな注目を浴びたのだ。

そして2010年、「笠盛」のブースにはケミカル刺繍で作ったネックレス、ピアス、ブローチ、ボタンなどが並んだ。嬉しいほど売れただけではない。シャネルに採用された。プラダ、ゴルチエといった超一流のブランドのバイヤーたちも足を止め、手に取って熱心に見入っていった。

一躍注目を浴びて売上を伸ばしたとはいえ、「KASAMORI LACE」は「紐」でしかない。紐でしかない刺繍は、服の一部にあしらうパーツにしか使われない。服と対等で独立し、服とお互いに引き立て合うアクセサリーになるには力不足である。

何が足りないのか? 3次元の立体である。ダイヤモンドもルビーも真珠も、3次元の立体だからアクセサリーに使われる。ダイヤモンドは立体だから、カットの善し悪しが価値を決める。これらがペラペラの平板状だったら、果たしてアクセサリーになっただろうか?

どう考えても「珠」が欲しい。しかし常識は、刺繍で「珠」を作ることができないと教える。どうしたらいいのか?

写真:「000」を生み出すミシンの前で片倉さん

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第1回 工学部卒

たった2本の糸でできたジュエリー、「000(トリプル・オゥ)」の産みの親であるデザイナー、桐生市の刺繍会社「笠盛」に勤める片倉洋一さんは一風変わった経歴の持ち主だ。

日本の大学を出るとロンドンに飛び、4年半、デザインとテキスタイルを学んだ。デザイナー志望者は多くそんなルートを選ぶ。別に珍しくはない。

パリ、スイスで最先端のファッション、テキスタイルを創り出すスタッフとして実績を積んだ。これも、ファッションの世界を目指す若者には、いわば定食コースみたいなものだ。

日本に戻ると、群馬県桐生市の刺繍会社「笠盛」を訪れ、笠原康利会長(当時社長)によると、まるで押し売りのように自分を売り込んで社員になった。確かに、人並みを越した積極性ではある。だが、

「この会社で働きたい!」

と思い定めたら、誰しも積極的になる。片倉さんはその度合いがやや強かっただけだろう。

では、どこが一風変わっているのか。
学歴である。

片倉さんは東海大学工学経営工学科を出た。人間工学、生産管理、コンピューターなどを学んだ。デザイナーには、まずない出身学部である。

卒業と同時にロンドンに向かったのは、学生時代に沸き上がった、ファッションの世界でものづくりをしたいという情熱に駆られたからだ。ロンドン芸術大学のチェルシー・カレッジに身を落ち着けた。デザイナーを目指して、順調な滑り出しだと思えた。
だがここで、片倉さんは挫折しかかる。

「周りの学生は、早くからデザインを学んできた人ばかり。デッサンの基礎もきちんと身についている。ところが僕は工学部卒でしょ? デッサンなんかやったことがない。ここはアート&デザインの学校だから、自分が日本の大学で学んできたことは役に立たない、認めてもらえないとしか思えなかった。これはついて行けるのかな、って自信を失って……」

ある個別指導の時間。ふと、大学時代のことを話した。「人間工学」「システムデザイン」を専攻し、数学が得意なんです……。それは愚痴だったのかもしれない。

「ああ、そうなんだね」

といってもらえる程度の話だと思っていた。ところが、話を聞いてくれていたケイ・ポリトヴィッツ(Kay Politowicz)学部長がこの話に食いついた。質問攻めにあった。それは何を学ぶ学問か。どんな実績を残したのか。あなたが得意だったのは……。そして、こう言ったのである。

「工学とデザインがうまくつながったら、洋一らしさになるね」」

考えてもみなかったことだった。

「そうか。私はデッサンはできないが、工学、数学が分かる。デザインの勉強しかしてこなかった人たちはそんなものを持っていないはずだ!」

片倉さんが生み出した「000」のスフィアシリーズは、刺繍ミシンの上糸、下糸のたった2本の糸で「珠」の連なりを作る。「000」のネックレスも、ほどけばたった2本の糸に戻る。
刺繍は2次元のものであると、ずっと思われてきた。その常識を覆して3次元の「珠」を創り出したのが片倉さんである。そして糸がジュエリーになった。
「珠」をつくるには、ケミカル刺繍という手法を使う。水溶性不織布に刺繍をし、あとでこの台紙を溶かして刺繍だけ残すのだ。糸を止める生地がなくなるから、糸の絡め方、束ね方に工夫をしなければならず、布に施す刺繍に比べて数十倍、数百倍の計算をして初めて設計図が描ける。
その上、「珠」は立体である。平面のケミカル刺繍のプログラミングを住宅の設計図に例えれば、「珠」を作るためには超高層ビルの設計図を描くのに等しい計算量が必要になるという。

「私は数学ができました。コンピューターも分かります。そうでなかったら、刺繍ミシンで『珠』を作ることはできなかったでしょう。自分が持っているものを使え、というケイの教えがなかったら、『000』はできていなかったはずです」

デザイナーとはどんな人? と問われて、

「ファッションセンスに優れていて、自分が思いついた新しいファッションを図案にできる人」

と答える人も多いだろう。だが、片倉さんは図案を描くだけの人ではない。発想があり、それを技術が支えて形にするデザイナーである。そして、自分たちが創り出したものが多くの人に役立ち、喜んでもらえることを常に頭に置く。プランナー、クリエーターとも呼びたくなるデザイナーである。そうでなければ「000」は産声を上げてはいなかった。

数学と物理が得意なデザイナー。その片倉さんの解剖を試みる。

写真:自分が創り出した「スフィア」を手にする片倉さん

「桐生の職人さん」中断のお知らせ(下)

話は変わります。桐生は極端なほど分業化が進んだ織物の町です。大企業は自社工場に染色から織りまでの一貫生産体制を築いてコストダウンを図ります。桐生にもかつて、一貫生産の大企業を作ろうという試みはありました。結局うまく行かず、近代化の波に乗ることができないままいまに至っています。
大工場がうまく行かなかったのは手を組んだ相手の裏切りなど様々な原因があったようですが、その1つに

「一国一城の主にならねば男ではない!」

という桐生気質があるような気がします。どこかに勤めて布の生産に関わるよりも、技を覚えたら独立して自分の会社を持つことが当たり前のように続けられてきたのが桐生です。そんな桐生は

「石を投げれば社長さんに当たる」

町です。
結果として中小零細企業の集まりとなった桐生を、時代に取り残された町と切って捨てることもできます。
しかし、近代化に乗り遅れることはマイナス面だけしかないのでしょうか?

一貫生産の大工場では、職人さんは企業の歯車のひとつです。年々革新される生産技術を活かして合理化は進むでしょうが、「技」への執着は減るのではないか。決まり切ったことを日々こなせば毎月決まった額の給与を得て暮らしていける。自分の技をもっと磨こうという思いは、ともすれば薄くならざるを得ないのではないでしょうか。

分業化が極端にまで進んだ桐生では、1人1人の職人さんには近代技術を取り入れる資金のゆとりがありません。自分の腕、技だけが頼りです。少しでも手を抜けば取引先を失うでしょう。いや、手を抜かないだけでなく、受け継いだ技を守り、それに工夫を加えて技を磨き上げなければ競争からはじき出されてしまう厳しい環境で仕事を続けてきました。他より一歩でも先に出なければ経営が、暮らしが続けられないのです。こうして桐生で生き残っている職人さんは技を磨き続けた結果、桐生はあらゆる繊維の技が生き残っている世界でも希有な町になったのだと思います。桐生は繊維の技の宝庫です。

しかし、それだけでいいのか。筆者の目に桐生は過渡期にあるように見えます。自分の技さえ磨けば生き残ることができる時代は終わりつつあるのではないか。当初は賃金の安さだけで日本の繊維産業から仕事を奪ったアジア諸国も、いまや技術も相当向上したと聞きます。このままでは桐生の仕事が減り、職人さんたちは廃業を迫られ、大切な技が途絶えてしまうのではないか。

「『桐生の職人さん』読んでますよ」

とい言ってくださった桐生の方がいました。取材対象にはしなかった繊維関係の方です。次に出て来た言葉に考えさせられました。

「でも、読めば読むほど寂しくなるんです」

寂しくなる? そんな原稿を書いた覚えはありません。何故です?

「高齢の方ばかり出て来るじゃないですか。若い人の姿がない。このままでは技が途絶えてしまいます」

いわれてみればその通りです。それはもったいない、いや、それを許してしまうのは日本にとって損失だ、と筆者は思います。
では、どうすればいいのか? 取材しながら、何度も考えました。技はある。足りないのは何か?

「生きている技の活用法を考え、技と技との組み合わせ方を考えて新しいものを創り出すコーディネーターではないか?」

筆者が到達した仮説です。
しかしいま、日本の繊維産業は衰退期にあるといいます。力のあるコーディネーターは払底しているのかもしれません。とすれば、桐生の繊維産業に携わる方々が自力で未来を切り拓くしかありません。そのためには井の中の蛙になって葦の髄から天井を覗く生き方を変えなければなりません。仕事、業種を超えた幅広い人脈を作り、議論をし、アイデアを出し合い、自分たちの進む道を見出さなければなりません。

広く世界を見渡せば、すでに、織物、編み物、刺繍をセンサーにし、医療現場で活用する試みが始まっています。遺伝子を操作して蚕に蜘蛛の糸を吐かせる技術も日本にあります。第5世代移動通信システム(5G)の基地局では、ノイズを避けるため銅繊維が使われているとも聞きました。

織物、編み物という限られた世界に閉じこもることなく、他の業種とのWIN—WINの関係を築き上げる。そのために幅広いネットワークを作り、織物、編み物を活用できる分野を見つける。これからはそんな時代なのではないでしょうか。そうしなければ、桐生の技は途絶えてしまうのではないでしょうか。
「技」は、一度途絶えると、復元は不可能とまではいわないものの、極めて難しいことです。

桐生に生き続ける繊維の技は無形の産業資産です。ほかの何かと組み合わせて磨けば、光り輝く宝石なる原石です。
その磨き方を生み出し、原石を輝く宝石にする。そんな試みが始まるのを筆者は心待ちにしています。

「桐生の職人さん」中断のお知らせ(上)

前回の周敏織物で、長く続けてきた「桐生の職人さん」の連載を中断します。

前回までで32社・人の桐生の「技」をご紹介してきました。八方手を尽くして取材したつもりですが、これが桐生の「技」のすべてかといわれると心許ないところがあります。私の目が届かなかったところに、まだまだ技が潜んでいるのではないか? との思いが残ります。そのため「終了」ではなく「中断」とし、これから先、ご紹介したい技に出会えたらその都度取り上げることにします。

「桐生の職人さん」の連載では2つの誤算がありました。
1つは、取材先の探し方です。
桐生に生き続けている織物の技を桐生市役所も把握していないことは「はじめに」で書いた通りです。そのため、新聞記者時代の人脈を頼って探し始めました。
当初は楽観的でした。長年繊維で生きてきた町です。最初の取材先にたどり着けば、あとは

「あなたがご存知の優れた職人さんを紹介して下さい」

とお願いするだけで、いくらでも糸を繋いでいけると思ったのです。

ところが実際に取材を始めてみると、私の楽観はみごとに裏切られました。糸がつながらない。皆さん、さすがに同業の知り合いはあるのですが、業種の垣根を越えた横のつながりが職人さんたちには皆無に近かったのです。日々の仕事をこなせばよい。自分の仕事の垣根から外に出る必要はない、というのが職人さんたちで、仕事の発注先、受注先さえ知っておけば仕事には十分。

「俺と違う仕事をしている仕事の名人といわれてもねえ……」

もちろん、取材先に紹介して頂いた技もいくつかは取り上げました。しかし、ほとんどは記者時代の知り合いに頼るしかありませんでした。

「漏れがあるのではないか?」

という懸念が消せないのはそのためです。だから「中断」します。

2つ目は取材の難しさでした。
織物、編み物は私たちの暮らしになくてはならないものです。裸で外に出ることができない以上、毎日身につけます。ありふれた、どこにでもあるものなのです。そのため、

「いってみれば、ローテク(Low Technology)の世界だろう。繊維に関しては素人の私にだって取材できるはずだ」

と、簡単に考えていました。だって、縦横の糸を交互にくぐらせれば布になるし、糸を絡み合わせれば編み物になるではありませんか。
ところが、実際に取材を始めてみると、それは筆者の勝手な思い込みであったことが次々と明らかになりました。

例えば、紗織り、絽織の喜多織物工場です。かつて工業高校で使われた教科書まで見せて頂き、織り上がった紗織り、絽織の構造は理解できました。ところが、なぜこんな構造を織機で織ることが出来るのかがどうしても分からない。
喜多正人社長は、私の目の前で

「ほら、これを綜絖(そうこう)に取り付ける。綜絖が引き上げられると、ここが上に上がるからこれがこうなって……」

と懸命に説明してくださるのだが、わからない。頭に入らない。なぜもじりができるのか……。

高橋デザインルームでも同じ思いを抱きました。
社長の高橋宏さんは図案を織り組織にする意匠屋さんです。生地の表面に出す糸、その下に敷く糸、下に隠す糸、それを固定するために回す糸。その構造を設計する仕事です。
高橋さんは、それをどうやって設計するのか、熱を込めて説明してくださいました。だが、分からない。分かりたいからいろいろな質問をしました。丁寧に答えていただきました。それでも理解できない。どうしてこんな設計ができるのだろう? 織り上がりが何故こんな布になるのだろう?
高橋さんの学歴は中学卒です。向学心は人一倍ありましたが、家庭の事情が進学を許しませんでした
筆者は大学卒です。それなのに、高橋さんの頭の中で構築される設計図が理解できない。お話を伺ううちに、大卒という学歴が恥ずかしくなりました。学歴で人を区別するのは間違いです。

他の取材先でも同じ思いを持ちました。とんでもない世界の取材を始めたものだと何度も後悔しました。

原稿は、自分が理解した範囲内でしか書けません。32編のレポートは、筆者が理解できたと思えた範囲内でしか書けませんでした。だとすれば、私は桐生の職人さんたちの技を、お読み頂いている方々にどこまでお届けできたのだろうか? と考えざるを得ません。
これが誤算の2つ目です。