縫製業→ブランドメーカー ナガマサの1

【コレド室町3】
コレド室町は、東京・日本橋室町で三井不動産が手がけた再開発で生まれた商業ビル群である。2010年10月、コレド室町1が出来ると、3年半後の14年3月、コレド室町2、コレド室町3が続いた。日本橋は旧東海道の起点。ここに江戸の伝統を蘇らせるのが狙い、と各種メディアは紹介する。コレド(COREDO)とは「CORE(核)」と「EDO(江戸)」を組合せた、「江戸の中心」という意味の合成語である。
「コレド」を現実にしようと、三井不動産は国内外から有名店、老舗を誘致、ショッピングも食事も楽しめる商業施設を生み出した。日本橋三越本店、日本銀行本店はすぐそば。少し歩けば高島屋日本橋店もある。東京の、いや日本の商業活動の核の1つに育てようとの意欲が見える。

「コレド3に空きが出来ます。ポップアップショップを出しませんか?」

桐生の縫製会社ナガマサの社長、長谷川博さんが東京の合同展示会場で突然声をかけられたのは2022年3月のことだった。差し出された名刺を見ると三井不動産の商業施設担当と書いてある。百貨店のバイヤーがほとんどの展示会に不動産会社? 何のことだろう?
ポップアップショップとは、期間限定で開く店舗だ。何でも、いま営業している店が、突然閉店すると言い出した。跡を埋めなければならない。そこに入りませんか? という。
相手は業界の雄、三井不動産である。それが、東京の商業エリア中心の1つである日本橋に新しく作った商業ビルに出店しないかという。聞くと、入っているのは国内外の有名店や老舗ばかりだ。どうして、知名度も何もない私に? 戸惑いが先に立ち、曖昧な返事しか出来なかった。

「EACH OF LIFE THE SHOP」にはカフェが併設され、美味しいコーヒーが楽しめる。

長谷川さんがオリジナルブランド「Season off」を立ち上げたのは2016年のことだった。最初は、縫製した際の余り布でTシャツやブラウスを作ってネットの手作りサイトに出してみたがあまり売れなかった。
翌年、会社の倉庫を改造してカフェを併設したライフスタイルショップ「EACH OF LIFE THE SHOP」を開店した。同時に、「Season off」のために機どころの桐生、隣の栃木県足利市から生地を仕入れ始めた。余り布を活用する発想はよかったが、それでは消費者が求めるものは作れないと思い至ったからだ。素材から見直した「Season off」は、「EACH OF LIFE THE SHOP」に並べると、そこそこ売れ始めた。
もっと販路を広げたい。2018年、知人の勧めで繊研新聞社が主宰して東京・恵比須で年2回開く新作衣料の展示会に出始めた。そして4年後、三井不動産から声をかけれられたのだった。

決断できないまま三井不動産の担当者と別れた数日後、再び長谷川さんに声をかける来場客がいた。

「コレド室町3に空きが出来ます。ポップアップショップを出しませんか?」

えっ、あなたも三井不動産の方ですか? 実はつい先日も……。

「ここで『Season off』見て、これならコレド室町3のお客さんにも喜んでもらえると思いましたので」

だが、長谷川さんはそれでも決断できなかった。
「EACH OF LIFE THE SHOP」の「Season off」の売上げは右肩上がりではある。しかし、目の肥えた東京の客に、「Season off」が通用するか? シャツの1枚も売れずに、スゴスゴと引き返すことになりはしないか? そんな弱気の虫が決断を鈍らせた。

ほかがやらない仕事 下山縫製の3

【ほかがやらない仕事】
下山縫製は下山湧司会長の父、清次郎さんが興した。清次郎さんは、戦争中に鉄=織機の供出を求められて廃業するしかなかった機屋の長男である。桐生工業専門学校(群馬大学理工学部の前身)を出て市内の縫製会社に勤め、1950年代の初めに独立した。

父が興した事業は順調だったが、湧司会長には跡を継ぐ気はなかった。高校を出ると東武鉄道に就職し、サラリーマン生活を始めた。
ところが、である。このサラリーマンというやつが肌に合わない。

「だって、働いても働かなくても給料は一緒。どうにも納得できなくて、仕事が嫌になったんだ」

働けば働いた分の見返りがある父の会社に入ったのは23、4歳の時である。
清次郎さんは、得意先1社の仕事を丁寧にこなす職人だった。繊維製品の需要が年を追って増えていた時代である。それでも捌ききれないほどの仕事に追われた。湧司会長は父のもとで縫製を学び始めた。

繁栄を続けた織都・桐生に陰りが見え始めたのはいつからだったろう? 健全な経営を続けていた下山縫製もその例外ではなかった。少しずつではある。だが、確実に仕事が減り始めた。

「これはいかん。受注先を増やさないと大変なことになる」

湧司会長が頻繁に東京に出てアパレルメーカー、問屋を回り始めたのは36歳の時だ。飛び込み営業である。自分で縫った見本を抱え、足を棒にして歩き、粘りに粘った。
とはいえ、総ての訪問先には縫製の仕事を出している先がすでにある。そこに潜り込むのは生半可なことではない。

「だからね、ほかがなかなか引き受けない仕事はありませんか? ってやったんだ。どんなに難しい仕事でも、うちならできます、ってな」

言ったからにはやらねばならない。湧司会長は

「父は気になることがあると、何とか解決してやろうとする」(下山光政社長)

人である。もぎ取るにようにとってきた注文をこなそうと、脇目も振らずにミシンと格闘し始めた。

少しずつ仕事が増えた。ミシンを増やし、縫子さんを集めた。縫子さんは若い女性ばかりだ。敷地に寮も建てて30人以上を使うようになった。
ほかの縫製業者が敬遠する仕事を率先して引き受ける下山縫製には技術が蓄積し始めたのは自然な流れだろう。
いま下山縫製が、

「ほかが引き受けない仕事、安くない仕事」

を仕事の中心に据えているのは、自分たちの技に対する自負心の表れだ。

ほかがやらない仕事 下山縫製の2

【シルク、3㎜、三巻(みつまき)】
布地の端を三つ折りにして縫う加工を三巻加工という。糸のほつれをなくし、布地の強度を高めるのが狙いである。身の回りにも、ハンカチ、風呂敷、スカーフをはじめ、ズボンやシャツなど、三巻加工が施されたものは多い。

生地の端を三重に折りたたんで直線に縫う。生地がポリエステルなどの化繊やコットンならそれほど難しい縫製ではない。だが、その三巻加工で難度が極めて高いのがシルクである。
三重に折りたたんでミシンで縫っていくと、上になった布と下の布がずれてしまうことが多いのだ。ミシンには「送り歯」があり、生地を自動的に前へ前へと進める。三重になった一番下の生地は、この送り歯で送られていく。ところが、三巻されたところは上から「押さえ」で下に押しつけられている。だから、一番下の生地は前に進むのに、一番上になった生地はその場に止まろうとする。三重になった生地は、この二律背反に直面することになる。

化繊やコットンなど硬い生地なら、それでも三重になった生地は同時に動いてくれるからずれがでることはまずない。ところが柔らかく滑りがいいシルクは、余程の熟練の技がないと三重になった生地がそれぞれずれてしまい、縫い終わりが揃ってくれない。

生地がシルクであるだけでもそれだけの難しさがある。下山縫製が得意とするのは、「シルク、3㎜、三巻」である。下の図を見て頂こう。

シルク生地の端をこの図のように折りたたむ。そして「1.5〜2㎜」とあるところのちょうど真ん中をミシンで縫う(図では緑の線)。お手元に物差しがあれば、「1.5〜2㎜」というのがどれほど狭いのか、改めて確認して頂けるだろう。そして縫い目がほんのわずかでもずれれば、三重になったところではなく、二重のところ、あるいは一重になったところにはみ出してしまう。その上、縫いはじめと縫い終わりの両方がきちんと揃っていなければならない。作業の難しさがおわかりいただけるだろうか。

だから、加工賃は高価である。化繊やコットンの三巻なら1mあたりの加工費は100円内外といわれるが、この「シルク、3㎜、三巻」は400円を下らない。

「とにかく、手間がかかるんだ」

と下山湧司会長はいう。

ほかがやらない仕事 下山縫製の1

【縫製】
服は数多くのパーツが縫い合わされてできている。この、各パーツを縫い合わせて完成品にする工程を「縫製」という。家庭内で趣味的に服を仕立てる「裁縫」もその一種だが、作業を効率化するため設備を導入し、産業として服を仕立てることを「縫製」ということが多い。
縫製業は通常、アパレルメーカーから注文受けて仕事が始まる。求められるのは、メーカーが作ったパターン、仕様書の通りに服を仕上げること、つまり正確さだ。ペーパークラフトに挑んだことがおありだろうか? 数多くのパーツを組み合わせ、ノリで貼り合わせて3次元の立体を作る工作だ。縫製もやはり、型紙に従って裁断したパーツを縫い合わせて体の曲線にピッタリ合う3次元の服に仕上げる。
だから、せいぜいペーパークラフトができる程度の技があればできる、と考えると大間違いである。最大の理由は、紙は歪んだり伸びたりしないのに対し、布、あるいは縫製の対象になる皮やビニールシートなどは伸びもするし歪みもすることである。さらに具合が悪いことに、使ってある糸の種類、太さ、織り方、編み方などで伸び方、歪み方が違う。また、布地を布目に沿って引っ張るのか、布目に斜めになる方向に引っ張るかでも変わる。それをのみ込んだ上で指示通りに3次元の服を仕上げるには、高度な職人技が必要になることはおわかりいただけると思う。
縫製業の仕事は、まずパターン通りに生地を裁断することから始まる。10枚、20枚の生地を重ねて裁断機にかけるが、生地によって伸び方、歪み方が違うため裁断の仕方を変えなければパターン通りのパーツができない。職人さんは手で触って布地の性格を読み取り、最適な裁断方法を選ぶ。また、どうしても伸びや歪みが取れない生地には、樹脂を吹き付けて型崩れをしないように加工した「接着芯」を張り付けた上で裁断する。

        下山縫製の工場

次は、裁断したパーツをミシンで縫い合わせる工程だ。シャツの前立て(二重になってボタン穴が縦に並んでいるところ)のように、布目に沿って直線に縫えば済むところは比較的に簡単で、数ヶ月すればできるようになる人が多い。難しいのはシャツなら裾や衿に出てくる曲線だ。場所によって布目との角度が変わり、伸び方、よじれ方に変化が起きるためで、指先の感触に頼って布地をなだめながら美しく縫いあげるには少なくとも数年の修行がいるといわれる。また、シャツの袖口には着脱が簡単なように切り込みが入っているが、ここを強化するために短冊状の布を縫い合わせている(「剣ボロ」という)部分も難度が高い。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの3

【こっそりと】
大澤さんが横振りミシンに魅せられ、刺繍職人の道に進んだのは17歳の時だった。近くの刺繍屋さんに弟子入りし、十数人の先輩女工さんに囲まれながら刺繍の技を学び続けた。

だが、学んだのは刺繍の技だけではなかった。十数台の横振りミシンはしばしば調子が狂う。そのたびにミシン職人が呼ばれ、修理をする。ほかの女工さんたちは自分のミシンが修理されている間は辛い仕事から解放される自由時間だ。好き勝手なことをして修理が終わるのを待った。

大澤さんは違った。ミシン職人の修理を食い入るように見ていた。こんな故障が起きたときはどこを見るのか。何をどうすればうまく動くようになるのか。工具が大好きな少女は、やっぱりメカが好きなのだ。それも、修理されているのは人生をかけようと思っている横振りミシンである。仕組みも動作も修理方法も完全にマスターしたい。ミシンの故障は最大の勉強の機会だったのだ。

半年もすれば修理の要領は頭に入る。大澤さんは自分のミシンは自分で修理し始めた。ミシン職人を呼べば時間がかかる。仕事が混み合っていれば2、3日後、ということもある。その間、大好きな刺繍ができない。自分で直せば、使えない時間はずっと短くなるじゃないの!

「みんなに知られないようにこっそりやったの。だって周りはみんな先輩でしょ。2ヶ月もたつと刺繍の出来映えも仕上げる枚数も先輩を追い抜いていた。その上、ミシンの修理まで自分でやるとなると、あの人たちの顔をつぶすし、悪くするといじめにあうかも知れないからね」

大澤さんは腕利きの刺繍職人になっただけでなく、こっそりと働くミシン職人にもなったのである。

【ミシンへの愛】
19歳、大澤さんが刺繍屋さんを退職して独立した。自宅の一部を改造し、10台連結の横振りミシンを入れた。前の職場から2人の女工さんがついてきた。社長は父・藤三郎さん。大澤さんは工場長兼技術部長兼刺繍職人という役回りだ。

油を差す
ここにも油を差す

大澤さんの朝は早い。朝6時には作業場に入る。まず床を丁寧に掃き清める。終わると、全てのミシンに油を差す。ミシンは高速運動を繰り返すパーツが多い。油が切れると金属同士がこすり合いって動作が不安定になる。そればかりか、金属部品の摩耗も起きる。

「弘法筆を選ばず、っていうけど、弘法さんだってちゃんと手入れされてる筆を使った方がいい字を書けるんじゃない? ミシンも同じ。私たちは横振りミシンのおかげで仕事ができているんだから、まず周りを清潔にし、ミシンにちゃんと手入れしてあげるの。私たち刺繍職人のイロハのイだと思うのよね」

それほど気を使っても、経年変化もあれば女工さんの操作ミスもある。不具合は起きてしまう。そうなると、ミシン職人である大澤さんの出番だ。
もう人の目を気にすることはない。大澤さんは幼い頃から集めていた工具を取り出し、できる修理はすべて自分でこなし始めた。

「いつの間にか、ほとんどの修理ができるようになったわ。あ、ミシンを動かすモーターの修理はできないけど」

いま、大澤さんは11台の横振りミシンを持っている。最も古いのは33歳の時に買ったから、もう半世紀も使い続けていることになる。あとの10台も

「みんな古いの」

毎日周りを掃き清めてもらい、油を差してもらい、それでも体調を壊せばすぐに修理してもらえる。大澤さんの愛に包まれた横振りミシンたちは幸せを噛みしめているに違いない。