ミシンの職人 大澤紀代美さんの2

【どぶ板通り】
2022年11月、筆者は大澤さんと一緒に、「スカジャン展」を開催中の横須賀美術館を訪れた。
スカジャンとは、「横須賀ジャンパー」の省略である。戦後間もなく、米海軍横須賀基地に駐留した米軍兵士たちが、鷹や虎、龍など和風の柄や、自分の所属部隊、基地のシンボルをデザインした柄をジャンパーに刺繍させたのが始まりだといわれる。その後、横須賀・どぶ板通りで一般向けの販売も始まって人気が沸騰した。歴代のスカジャンを一堂に集めたのが「スカジャン展」である。

一見、桐生とも大澤さんとも縁がない「スカジャン展」にわざわざ足を運んだのは、会場の一角に「大澤紀代美コーナー」が設けられ、美術館の依頼で大澤さんが貸し出した作品が展示されていたからだ。
大澤さんの作品はスカジャンではない。普通の刺繍である。それなのに、なぜ「スカジャン展」に展示されたのか。

「だってね、名前はスカジャンだけど、そのほとんどは桐生で縫ってたの。あの頃の桐生は和服に刺繍をする人たちがたくさんいて、スカジャンは新しい職人の練習にピッタリだったのよ。私の工場でも随分縫ったわ」

名前はスカジャンだが、Made in桐生。スカジャンを語るには桐生は外せない。桐生の刺繍といえば大澤紀代美をおいてほかにない。それが美術館の判断だった。

大ちゃんと「ドブ板コーバスタジオ」

美術館をひと巡りした私たちは、スカジャンのメッカ、どぶ板通りに足を伸ばした。大澤さんのもとで横振り刺繍を3年間修行した若者が、ここでスカジャン店「ドブ板コーバスタジオ」を開く準備を進めていたからだ。彼を大ちゃん(山下大輔さん)という。

店に入るなり、大澤さんは口を開いた。

「大ちゃん、このミシンじゃ縫いにくいでしょ。ちょっと紙はないかしら」

大澤さんは紙を置いてミシンを動かした。

「ほら、針穴がいくつもできるでしょ? 本当は同じところに針が落ちなきゃいけないのに」

なるほど、小さな針穴が狭い範囲に散らばっている。

「ちょっと、マイナスドライバーある?」

大ちゃんが持ち出したドライバーを手にした大澤さんは釜を取り出した。針も外して何やら調整している。

「ここをもう少しこうすると、バランスが良くなるの。動かしてみて。ね、音も違ってきたでしょう」

確かに、大澤さんが手を入れるまでは何となく濁っていた音が、スッキリした。

弟子が開く店に駆けつけて、まずミシンを調整する。大澤さんはそんな人である。

「だって、いい刺繍をするには、ミシンにちゃんと動いてもらわなくちゃいけないの。刺繍職人は刺繍の腕はもちろん必要だけど、それと同じぐらいミシンに詳しくなって手入れ、修理ができるミシン職人にならなきゃならないのよ」

大澤さんに調子を整えてもらった横振りミシンで、いまごろ大ちゃんは素敵なスカジャンを縫っているはずである。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの1

【横振りミシン】
服の仕立てに、ミシンはなくてはならない道具である。趣味と実益を兼ねてミシンを操っている方もいらっしゃるだろう。しかし、ミシンで何故縫えるのかをご存知だろうか?
ミシンの針は先端に糸を通す穴がある。この穴を通った上糸は針が下に下がると糸を伴って布地を突き抜ける。針が上に上がると、糸は布地との摩擦で布地の下にループ状になって残る。目で見えないミシンの下部には「釜」という部品があり、布地の下に残った上糸を引っかけて1回転しながら、釜の中にあるボビンに巻かれた下糸をループの中に通す。実に巧妙な仕掛けで、18世紀にイギリスで発明された。一般的には縫製ミシンと呼ばれ、布地を自動的に送る機構(「送り歯」)や布地を押さえて縫いやすくする「押さえ」が備わり、正確に素早く縫える。
上下運動を繰り返すだけだったミシンの針を左右にも動かす機能をつけ加えたのは、一説では、19世紀半ば、アメリカの機械工、ウォルター・ハントだった。やがて改良が相次ぎ、ジグザグミシン(千鳥ミシン、ともいう)が生まれた。縫い目の幅を前もって調整できるため、ズボンの裾上げや布の端の始末などにいまでも使われている。これが横振りミシンの原型となった。
ミシンで刺繍をするには、縫う布地を自在に動かさなければならない。それには、まずジグザグミシンから「送り歯」「押さえ」を取り外して布地を自在に動かせるようにする。さらにジグザグミシンでは一定だった針の振れ幅を自由に調整できる機構がいる。そんな改良型ミシンを作った人が桐生にいた。大正時代のことというが、残念ながら名前は残っていない。このミシンを「横振りミシン」という。国内繊維産業が盛んな頃は複数社が製造していたが、いま残っているメーカーはJUKIだけだ。
では、「横振りミシン」は何故桐生で発明されたのか? 桐生の刺繍作家、大澤紀代美さんによると、繊維産業で栄えたかつての桐生では大量の帯が織られた。ほかの帯産地と違って桐生の帯は無地のものが多く、それに刺繍職人さんたちが手刺繍で装飾を施していた。すべて手作業だから生産性は低く、出来上がった帯は高価になる。「それを何とかしようと思ったんでしょうね」と大澤さんはいう。ただ、発明家の名前が残っていないのと同じように、この件についての資料も見付かっていない。

【ミシン職人が驚いた】
大澤さんについては「ミシンの魔術師 大澤紀代美さん」で、刺繍を芸術にまで高めた刺繍作家として紹介した。お読みいただいた方もいらっしゃると思う。
今回は、少し違った視点から大澤さんをご紹介する。ミシン職人としての大澤さんである。

あれは、30人ほどの女工さんを使って工房を経営していた20代のころだった。数台のミシンで頻繁に目飛びが起きるようになった。目飛びとは、布地を突き抜けた上糸が下糸と絡まらず、宙ぶらりんに浮いてしまう事故である。
刺繍作家、刺繍職人は刺繍には詳しいが、その道具であるミシンについての知識は浅い。ミシンが故障すれば、専門のミシン職人に修理を頼むのが普通だ。大澤さんは出入のミシン職人さんを呼んだ。

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【120%=ファクトリーブランド】
最終製品を持ちたい。自分が創りだした製品で市場と直接に対話をしたい。それは中間製品のメーカー、下請けで仕事をする会社の多くが持つ願いである。
須永さんも例外ではなかった。素材の布は自社の工場で織っている。試作を繰り返して他にはない布を生み出している自負もある。これを最終製品にして消費者に直接届けたい。

夢を持つのは簡単だ。しかし、最終製品を持つということは、在庫を持つことである。いまはアパレルメーカーですら販売不振に悩む。独自ブランドの服を作っても在庫が膨れれば経営は危機に瀕する。

「服はハードルが高いんです。それで、まずリスクが小さい小物から始めよう、と」

準備を積み重ねた。

須裁のファクトリーブランド商品群。

社員が自社開発の生地を使ってバッグや帽子といった小物を作る「須裁ラボ」を立ち上げた。須裁の可能性を広げる研究機関だが、できた商品は「須裁ラボ」ブランドで販売も手がけている。

「ジャカードワークス」は、都市開発会社の女性社長の協力を得て始めた。男女を問わず使えるユニセックス製品、リサイクル繊維などを使ってサステナビリティ(持続可能性)商品が主体だ。まだバッグ類に止まっているが、将来は服も手がけたい。

そして2020年秋、アトリエショップ「Charrm(チャーム)」を工場の一角に開いた。初めての販売店舗である。専属デザイナーは桐生出身の坂入歩未さん。関西のアパレルメーカーでパタンナーとして腕を磨いた坂入さんは、

「日常を過ごす時間を美しくすることで人生はもっと豊かになる」

と、まず「Charrmブランド」のバッグ類をデザインし、販売を始めた。

内外装を白に統一した「Charrm」は、1925年に建った工場と壁1枚で隔てられ、いつ訪れてもガシャガシャガシャガシャというジャカード織機の機音が響く。

Charrmの内装。

「ところで、須裁のファクトリーブランドのショップを何故工場の一角にしたか、わかりますか?」

突然、須永さんから質問を受けた。取材者が取材先から問われるのは異例である。

戦略的な販売店だから、できれば東京の繁華街に出したいところですよね。ひょっとしたら、コストをかけないため? うーん、分かりません。

「お客様に、生地の生産現場を見て欲しいのです」

1枚の布地ができるまでに、どれだけの手間暇、工夫、労力、隅々まで張りめぐらした神経がいるのか。生の機音を聞き、織機の動きを見てもらえば、私たちが織る生地の良さを分かってもらえるはずだ。
須永さんはそう考えたという。それは、私たちは最高の仕事をしているという自負の表れだろう。

だが、わざわざ桐生まで、須裁までどれだけの人が足を運んでくれる?

「手応えが出始めました。営業をかけたわけでもないのに、有力な販売店のバイヤーが来てくれるんです」

いま、須裁のファクトリーブランド商品はネット通販が主だ。店頭に置いている店はまだ東京都内に6店しかない。訪れたバイヤーたちは、ネットで須裁のブランド商品を知ったと口をそろえた。いいものを作り、ネットでの情報発信に力を入れたたまものだろう。
いまの手応えが続けば、須裁の商品を置く店が間もなく10店になり、やがて数十店に増えるはずだ。
須裁オリジナルの服が出回るのもそう遠くないのかも知れない。

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電子ジャカードを動かすデータは社内で作る。

【120%=お節介】
2022年秋、チェック柄の織物の注文が来た。といっても言葉によるイメージだけで、具体的な図案はない。イメージを形にし、生地に織り上げるのは須永さんの仕事である。デザイナーの仕事の一部を丸投げされたようなものだ。発注者は、須永さんのセンスに余程の信頼を寄せているのだろう。
任された須永さんは、イメージを元にチェック柄をデザインする。だが、1通りにまとめ上げることはしない。例えば、色の組合せを4通り考えたとすると、1枚の試し織りに4通りのチェック柄を織り出す。幅120㎝の織物だとすると、30㎝ごとに色の組合せを変えるのである。経糸(たていと)は整経屋さんに、30㎝ごとに色を切り換えるように頼む。特殊な整経だから費用はかさむが、4枚の織り見本を織るより遙かに安く済む。緯糸(よこいと)の色の切り替えは社内の意匠士に指示する。

4通りのデザインを作るのはお節介かも知れない。しかし、比較対照できるものがあれば最終判断しやすいはずだと須永さんは考える。
もともとイメージだけによる発注だから、4枚の試し織りをし、4枚分の請求書を書くことも可能なはずである。しかし、

「お客様だって最終判断をしやすいだけでなく、安くあがった方がいいでしょう」

それが須永商法である。

野村證券のある社長が大阪支店長時代、株式市場の変調を見て取った。株価が大きく下がりそうだ。彼は得意先に、株を手放して金を買うよう説得して歩いた。長年の顧客に、野村證券離れを勧めたわけだ。そして間もなく株価は下落した。金に乗り換えて損害を防いだ客たちはそれ以降、彼を絶対的に信用したという。
筆者が現役記者時代。彼を知る人から聞いた話である。ビジネスにおける信用とは、そんな姿で形成されるものではないか。
業種は違う。しかし須永さんの「顧客ファースト」の姿勢は、筆者の目にはその野村證券社長と二重写しになる。

須永さんのお節介は、それだけではない。織り見本を求められれば、顧客の図案をもとに、ある色をトレンド色に入れ換えたり、全体のイメージを手直ししたりしたものを加える。

「口には出さなくても、新しいデザインの布を生み出すときには『本当にこれでいいのか?』と迷っている人は多い。比較対照できるものをお目にかけることで最終選択のお手伝いができないかと」

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上にある黄色いボックスが電子ジャカード。重量鉄骨で支えられている。

【電子ジャカード】
織機に張った経糸(たていと)の上げ下げを自動化したジャカード織機には、「大塚パンチングの1」で触れた。紋紙の穴を読み取り、穴があるところは経糸を引き上げ、ないところはそのままにして織り柄を生み出すジャカード織機は機屋さんにはなくてはならないものである。
あるかないか、0と1で情報を作り出すのはジャカードだけではない。いまでは日常生活にすっかり溶け込んだコンピューターも、0と1で構成した情報で動く。「コンピューターの父」といわれる英・ケンブリッジ大学の数学教授・チャールズ・バベッジ(1791〜1871)は19世紀のはじめ、急速に普及し始めたジャカード織機にヒントを得て世界初のプログラム可能な計算機を考案した。ジャカードとコンピューターにはもともと親和性がある。
機械式で始まったジャカード織機を動かす紋紙にあけた穴が、0と1の電子情報に置き換わるのは自然な流れだった。コンピューターは当初、無数の真空管を使った巨大な装置だったが、大規模集積回路(LSI)などの開発が進んで急速に小型化が進んだ20世紀後半になると、コンピューターでジャカードを制御する電子ジャカードが開発された。紋紙はなくなり、フロッピーディスクやUSBメモリー、ついにはインターネットを介してやりとりされる電子データに置き換わった。
複雑な機械仕掛けで綜絖(そうこう)に上下運動の指令を出していたジャカードも、磁石のON-OFFで綜絖を上げ下げするようになった。電子情報は寸時に伝わる。紋紙の穴のあるなしで情報を読み取る機械式に比べてはるかに速い。このため織機の速度が上がり、生産性が高まった。
いいこと尽くめのようだが、泣き所もある。まず価格だ。かつての機械式ジャカードの数倍はする重量も遙かに増えた。機械式なら木製のフレームで織機の上に設置できたが、電子ジャカードは太い鉄骨でフレームを組まねば設置できず、これにもかなりコストがかかる。小さな機屋さんはなかなか手が出ないのが実情だ。

【120%=試作】
2026年に創業120年を迎える機屋、須裁が高価な電子ジャカード織機を導入したのは2013年のことである。鉄骨で新たにフレームを作り、フレームを支える基礎を頑丈にし、天井も高くした。それに高速に耐えられる架物も新たに作ったから、投資額は3000万円ほどに膨れあがった。従業員わずか6人の小企業には重い出費だ。

そもそも、従来通りの仕事を進めるのなら、速度を除けば使い慣れたジャカード織機で何の問題もなかった。それなのに、須永康弘社長は贅沢を承知で導入に踏み切った。

「入社してずっと、紋紙をなくさなきゃ、と思ってたんです」

紋紙は出来るかぎり処分したが、まだ工場の片隅にたくさん残っている。

紋紙とは、旧来のジャカードに経糸の上げ下げを指令するデータセンターである。ジャカード織機が発明されて以来、織機は紋紙からの司令で布を織り続けてきた。いまでも紋紙に頼る機屋さんは数多い。その紋紙をなくす?

「電子ジャカードができた今の時代、紋紙にはもうメリットがない。まずコストがかかる。使っているうちに摩擦で穴が広がって織り傷ができる。紋紙の紙も輸入品ばかりになって品質が落ちてそんな事故が増えた。何度も使うから保管場所も馬鹿にならない。電子ジャカードならそんな心配がなくなります」

なるほど。電子ジャカードの利点は分かった。しかし、そんな高額な投資に見合うほど利点は大きいのか?