背中を押されて 金加の3

【桐生ならばこそ】
金加の前身は、産地商社ともいえる買継商である。父・亥嘉造さんが昭和25年(1950年)5月、群馬県北群馬郡榛東村から桐生市に出て来て興した。起業から間もなく朝鮮戦争が勃発、繊維産地である桐生は戦争景気に沸いた。創業間もない金加にも大量の注文が押し寄せた。豊かな買継商の長男として何不足なく小学校6年生になった金井さんは、作文に

「家の仕事を継ぐ」

と書いた。

だが、子ども時代の夢を持ち続ける人は少ない。金井さんは中学生になると音楽にのめり込み、高校ではロックバンドを組んだ。大学を出るころには初志はどこかに行ってしまい、就職して給料のほとんどを楽器につぎ込んだ。フェンダー、ギブソン……、ギター好きの誰もが憧れる楽器で金井さんの部屋が埋まって行った。

仕事を辞め、家業に入ったのは就職して1年半ほどたった頃である。

「父に『車を買ってやるから戻ってこい』っていわれてコロリと変わっちゃった。だから、たいした跡継ぎじゃなかったね」

そんな金井さんが、後に世界の何処にもないキルティング関連の機械を次々と生み出すのだから、遅ればせながら金井さんは初志を貫徹したことになる。

それまで会社に勤めながら休日はバンド活動でステージに立ち、ギャラも得ていた金井さんが、今日は東京、明日は大阪と営業に飛び回り始める。

「ええ、時間の99%が仕事になりました」

客の求める生地を聞き出し、桐生の機屋に注文を出す。子どもの時からの友人には機屋の子弟がたくさんいた。彼らに客の注文を伝えると、他の仕事を押しのけてでも織ってくれる。時間ができると機屋を回った。遊びに行くのではない。それぞれの機屋の得意分野を頭に詰め込むためだ。繊維産地・桐生だからできたことだ。

「こんな生地、織れないかなあ?」

多分、他ではできないといわれたのだろう。客からそんな相談を持ちかけられれば金井さんは桐生にとって返し、織れそうな機屋に話を繋ぐ。織り上がれば生地を納める。できなければ、なぜ織れないのかを客に説明する。
金井さんへの客の信頼が日々増した。

【機屋へ】
客からの信頼は高まっているはずなのに、買継ぎの仕事は徐々に減った。中間を省いて流通を合理化する動き、いわゆる流通革命が繊維業界にも押し寄せたのである。
それを見て取った金井さんは金加をテーブル機屋に変身させる。織物産地と都会の問屋を繋ぐだけでなく、機を織るのに必要な紋紙、糸、架物、ジャカードなど機を織るのに必要な資材を小さな機屋に供給し、企画した生地を織ってもらうのである。工場を持たない製造業、いまでいうファブレス経営を取り入れたのだ。そして、ベッドを覆うマット用の生地に生産の重点を起いた。暮らしの洋風化が進み、需要が旺盛だったからである。

仕事が増え、捌ききれないほどになった。仕事に追われる日々を過ごしながら、金井さんは2つの問題に気が付いた。

背中を押されて 金加の2

【補修機】
ベッド用マットレスのマットのキルティングは、巨大なキルティングマシンが引き受ける。ローラーで送る出される生地の上で何本ものミシン針が同時に縫っていく。金加には日本製、ドイツ製、アメリカ製の高機能マシンが7台並ぶ。
だが、いくら高機能なマシンでも、ミスはある。糸切れ、である。滅多にないが、見過ごして出荷すれば不良品だ。だから、出荷前の検品で目をこらして糸切れがないか調べ、見つけたら補修する。

糸が切れている部分をミシンで縫う。切れていないところにきっちり繋げて縫う神経を使う作業だ。ジャンパーなどの小物や厚みがない生地ならミシンでできる。ところが金加が手がける、ベッドを覆うマットは大きいだけでなく、分厚い。糸が切れた部分を補修するには、たくしこんで幅を縮め、押さえ込んで薄くしなければミシンにかからない。力のいる仕事で、補修を担当する社員の多くは慢性的な腱鞘炎に悩まされていた。典型的な職業病である。

「何とかならないか」

という思いを金井さんは持ち続けていた。

上海で開かれた展示会場を訪れたとき

「これを使ったら何とかなるのではないか?」

と思いついたのは、いつも頭の片隅に補修作業のことが引っかかっていたからに違いない。

といっても、金井さんが目にしたのはそのものズバリの機械ではない。自動的に刺繍で絵を描くミシンである。厚手の生地の上をミシン針が自在に動き回り、見る見る絵を仕上げていた。事前のプログラムに従ってコンピューターが制御しているに違いない。

「それを見て、ミシンで絵が描けるのなら補修も出来るんじゃないか、って思ってね」

帰国するとすぐに知り合いの京都の機械メーカーの社長に打診した。

「実はキルティングの糸切れ補修に困っていてね。上海でこんな機械を見たんだが、あれに手を加えれば自動的に補修してくれる機械が出来るんじゃないかな」

コンピューターだけでなく、センサーなどの技術もひと昔前に比べれば飛躍的に進化した。縫わねばならない箇所をセンサーで特定し、コンピューター制御でミシンを動かして糸切れの部分を正確に縫う。残っている糸と繋げて縫うのだから、精密な測定とミシンの制御が必要になる。いまの技術なら……。
それが金井さんのアイデアだった。

「うーん、何とかなるかも知れないね」

半年ほどすると、世界の何処にもない補修機が届いた。検品係は見つけた傷の部分にシールを貼る。そのマットをローラーで送り込み、シールをはがして機械を動かす。まず赤色光を出すセンサーが傷を特定すると、ミシンがその場所まで移動して傷の部分を縫い始めた。補修が終わって機械を出てきたマットは、どこを見ても傷の跡形すらない。金加からクレームはもとより、腱鞘炎という職業病が消えたのはいうまでもない。

まずセンサーで傷を特定する
ミシンが傷を縫い始める

金井哲学に沿って、この機械も2台導入した。

「いやあ、金井さん、この機械はいいね!」

と感嘆の声を漏らしたのは親しくしているベッドメーカーの担当者である。

「これ、うちにも欲しいな」

やがてこのメーカーも1台買った。まだ世界に3台しかない最新鋭機である。

背中を押されて 金加の1

【キルティング】
英語では Quilting。ジーニアス英和辞典によると、動詞の quilt には
①……を刺し子縫いする;(手紙・金など)を(……の間に)縫い込む
②……に詰め物(裏打ち)をする
③(文学作品などを)寄せ集めて編集する、
などの訳語がある。刺し子とは布を重ねて縫い合わせることで、極めて丈夫になるため柔道着や消防服などに使われる手法だ。
単に複数の布を重ね縫いするだけでなく、表布と裏布の間に綿や毛糸、羽毛などを挟み込み、3つの層がずれないように重ね縫いしたものをキルティングという。丈夫なだけではなく、中に挟み込むものによって保温性やクッション性を高めることができる。布団などの寝具、防寒用のジャケット、コートなどのほか、バッグ、運送用の保護緩衝材など、多方面に使われる。
布地に堅牢性や保温性、クッション性という機能を持たせるのがキルティング加工の最大の狙いなので、縫い目はシンプルなマス目状のものが一般的だ。それだけでも、通常は平面である生地の表面に凹凸が生まれて3次元の表情を描き出す。さらに、機能性に加えて、縫い目を曲線にしたり複雑なデザインを描いたりして装飾性を高めた様々なキルトパターンも数多い。
また、高級ブランドで名高いCHANELのバッグは表面にキルティングを施して独特のファッション性を生み出し、根強いファンを持つ。また、キルティングを衣服のデザインに取り入れたものとしてはMACKINTOSHが名高い。

【4辺縫い】
ベッド周りのキルティング加工、縫製を手広く手がける金加の社長・金井正一さんが、

「こんな機械は出来ないだろうか?」

と岐阜県羽島市のメーカーに打診したのは2005年前後のことだった。

金加の主力商品はスプリングなどでできたベッド用マットレスの構造体を上下左右から包み込むマットである。表地と裏地の間に綿、ウレタンなどを挟み込み、キルティング加工をして作る。
かつては厚さ2、3㎝がマットの主流だった。しかし、その数年前から厚さ5㎝を超えるものが求められるようになっていた。恐らく、より快適な眠りに誘うベッドを求める人が時を追って増えたのだろう。

それはよい。しかし、厚みが増すと困ることがある。マットを仕上げるには4辺を縫わねばならない。ところがそんなに厚い生地を縫うミシンがない。だから金加は3つの層がずれないようにキルティング加工した生地を50mのロールにして出荷していた。この生地を裁断し、4辺を縫う難しい作業はベッドメーカーに任せていたのである。

実はこの工程は、ベッドメーカー泣かせでもあった。5㎝以上もあるフカフカしたマットはそのままではミシンにかからない。やむなく力で押さてできるだけペシャンコにしてミシンに通していたのだが、無理な作業だけに端から離れたところを縫わねば綺麗に仕上がらない。だから幅100㎝のマットを作るには、115㎝幅のキルティング加工した生地が必要だった。15㎝は縫った後でカットし、ゴミにするしかない。難しく、無駄が出て、環境にも悪い。

同じ長年作業を続けてきた金井さんは、いつしか

「自動的に、マットの4面を縫う機械は出来ないか」

と考えるようになった。そんな機械ができれば難作業がなくなり、無駄が減る。ベッドメーカーに喜ばれ、納入価格にも反映するはずだ。

色の移ろい 天然染色研究所の3

【枇杷色】
田島さんは4人の子どもを育てた。1番下の実里さんが成人式を迎えたのは、田島染工を閉じる少し前の2000年である。
これで子ども全員が成人する。人生の一区切りだ。何か記念になる祝い方ができないか。田島さんは考えた。

自宅の玄関前に大きな枇杷(びわ)の木がある。ある日、何の気なしに見ていたら急に想い出が沸き上がった。子どもたちと実を採って食べた。鳥をみんなで追い払った。この木に登る子どもたちをハラハラしながら見守った。特に、末っ子の実里はお転婆だったから……。

枇杷の葉で染めたストール

「そうだ、この木で実里の振袖を染めてやったら、家族の思いがいっぱいこもった晴着になる!」

だが、枇杷の葉で染めた布は地味な茶色だ。晴れの日の衣装には地味すぎる。しかし、何とかならないか。そうだ、鹿の子絞りにすれば実里にも似合う、あか抜けした着物になるのではないか

鹿の子絞りとは、生地に糸でたくさんの絞りを作って染める手法だ。まず、生地を四つ折りにし、その角を糸で縛って絞りを作る。こうして数千箇所を絞った生地を染め、あとで絞った糸を全て取り除く。糸でくくったところは染まらずに白く残り、四つ折りにした先端は染まるため、小さな白い輪が鹿の紋様のように繰り返す。
これなら、枇杷の地味な茶で染めても飛びきりお洒落な生地に仕上がるはずだ!

絞りができた生地を探した。だが、余りに手数がかかるためか、すでに国内では手に入らないことが分かっただけだった。鹿の子絞りは無理か? 想い出の詰まった枇杷の木で染めることはできないのか?

諦めかけたとき、思いもしなかったところから鹿の子絞りの生地が手に入った。群馬県内の女子大で寮母をしている親族から

「中国人の留学生が、国から取り寄せた生地を譲ってもいいといっている」

と連絡が来たのである。

「それからもひと苦労でね」

父が染めた晴着を着た実里さん

玄関先の枇杷の木から葉を取り始めた。着物1着分にはまだまだ足りないと取り続けると、45リットルのゴミ袋5袋分の葉がたまった。

次は色素を煮出さなければならない。大鍋に水を張り、ネットでくるんだ葉を入れ、沸騰させて15分。同じ葉を2回ずつ煮出して、約100リットルの染色液ができたのは3日後のことだった。媒染剤は市販の銅焙煎液を使った。

寸銅鍋に染色液を入れ、媒染剤で濡らした生地を入れる。80℃〜90℃に加熱して10分から20分。染めムラができないように常にかき回す。1度だけでは色が薄く、この作業を3回繰り返して濃い「枇杷色」を手に入れた。2日がかりの作業だった。

「自分で言うのもおかしいけど、嬉しくなるほどの染め上がりでした」

実里さんが仕立て上がった晴着で成人式に臨んだのはいうまでもない。

「桐生が大雪に見舞われた日だったという想い出があります」

実里さんはすでに2児の母だが、父が染めた枇杷色、鹿の子絞りの晴着は、いまでも大切に仕舞っているのはいうまでもない。

色の移ろい 天然染色研究所の2

【紫紺】
古代色の復元に取りかかったのは65歳前後だった。
まず手がけたのは、高貴な色とされていた紫だった。聖徳太子の冠位12階でも最高位の人だけに許されていた色である。
紫を染めるにはムラサキツユクサの根を使う。この色を「紫根」という。古代は、60℃ほどの湯をかけながらムラサキツユクサの根を臼でつぶした。こうして色素を湯の中に取り出し、薄い紫色の染色液を作る。染める反物に十分なだけの染色液を作るのだから大変な作業である。
布をこの液につけただけでは、繊維の上に色素が乗るだけだ。洗えば大半は落ちてしまう。繊維と色素をしっかりと結びつけるためには、色素に化学変化を起こさせる媒染剤がいる。紫根の染色では、古代は椿の灰汁が使われた。当時の人達が知るはずはなかったが、椿にはアルミ成分が多く含まれ、紫紺の媒染剤に最も適しているのだ。椿の灰汁に染める布を浸し、紫色の染色液に浸す。1、2度浸せば薄い紫に染まる。濃い紫は何度も浸す。

しかし、いまでは色素を取り出すにも、媒染剤の選択にも科学的に確立された方法がある。田島さんは迷わず、現代科学の成果を採用した。

ムラサキツユクサの根の色素はメチルアルコールに容易に溶け出す。メチルに根を浸すと色素のほとんどが溶け出して濃い紫の染色液になる。
媒染剤は何処でも手に入るミョウバンだ。ミョウバンはアルミと鉄、硫酸の化合物で水に溶ける。このミョウバン液に布を浸したあと染色液に漬けるのである。濃い紫の液だから簡単に染まる。薄い紫が欲しければ染色液に水を足して薄める。

作業を簡素化しただけではない。染め上がりの色は媒染剤中のアルミの量に左右される。少ないと紫は赤みを帯び、多いと青みがかる。椿の灰汁では含まれるアルミの量が分からず、狙った紫を出すのが難しい。しかし、ミョウバンのアルミ含有量はほぼ一定だから、思い通りの色に簡単に仕上がる。

「昔の人はムラサキツユクサの根から紫の色素をできるだけ沢山取り出そうと力を注いだでしょう。より濃い染色液ができれば染め上がりが綺麗になるからです。椿の灰汁にも神経を尖らせたでしょうが、こればかりは染めてみないと分からない。そうやって手間暇かけて最高に仕上がったものが高貴な人達に納められたのでしょう。ところが、いまの化学を使えば、簡単に古代に最高とされた紫根が再現できます」