【草木染め】
文字通り、草や木を使って繊維を染めること。私たちの祖先はすでに紀元前3000年頃には布を染め、色を身にまとい始めたといわれる。当初は木の実や花、葉を布にこすりつけて色を付けただけだったろう。やがて花びらや木の皮、根などを煮出したり絞ったりして液を取り出す手法が生まれた。染める前の布を灰汁(あく=木などを燃した灰の汁)に、恐らく偶然浸したら色が落ちにくくなった。灰汁に含まれるアルミ、鉄、銅などが色素に結びつく化学変化が起きたためで、いまいう媒染剤が発見されて人類は多彩な、落ちにくい色を手に入れた。
ほかにもイカスミ、貝の分泌液などの動物性染料、ベンガラ(黄土を焼いて作る赤色の顔料)などの鉱物性染料を使う染色もあった。いずれにしても19世紀半ばに化学染料が発明されて普及するまでの長い間、人々は自然から色を頂いていた。
草木染めはまず材料となる草木の収穫から始まる。様々な手間を加えて色素を抽出し、媒染剤を加えて染め上げる。手に入りにくい材料もあり、中でも希少なムラサキソウの根(紫根)から揉み出した液で染める紫(紫根色)は極めて高価で上流階級しか手にできなかった。高貴な色となったのはこのためだといわれる。
このように、かつて衣服の色は経済力、社会階層を反映していた。これを制度として定着させたのが聖徳太子の冠衣12階の制である。臣下の身分を「徳・仁・礼・信・義・智」とし、それぞれに「大・小」をつけて12階級に分けた。そしてそれぞれの階級がかぶる冠の色を定めたのである。上から「紫・青・赤・黄・白・黒」の順で、それぞれ「大」は濃い色を、「小」は薄い色の冠をかぶった。自分の階級の色を「当色」といい、自分より下の階級の色を身につけることは自由だったが、上の階級の色は「禁色」だった。
世が豊かになるにつれて庶民も衣服の色を楽しむようになった。江戸時代後期には行きすぎた景気を冷やそうと何度も奢侈禁止令が出て、とうとう衣服の色まで規制された。武士以外の階級が身につけていいのは「茶色」「鼠色」「藍色」に限られたのである。しかし、経済力をつけてきた町人を中心とする庶民の「美」への憧れは押さえつけることが難しかった。許された色の中で繊細に違う色を染め出す「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」が生まれ、庶民は規制を逃れて色を楽しんだ。幕府の規制がそれまでなかった色を生み出し、日本人の豊かな美意識を引き出したともいえる。
確認、確認、確認 今泉機拵所の3
【工夫】
正確さ。それは機拵えの絶対条件である。間違いなく組み立てられた架物がなくては、布は織れない。
だが、それだけで足りるのなら、筆者にだって明日からできそうだ。まず、今泉さんの仕事の進め方をじっくり見せてもらう。全体の作業が理解できたら自分でやり始める。時間は今泉さんの数倍、いや数十倍かかるかもしれない。それでも
「架物の納期はあまり気にしないんだよね。1ヶ月、2ヶ月かかるのは当たり前だから」
という機屋さんが多いから、何とかなるかも知れない。
では、機拵えは誰に頼んでも違いはないのだろうか?
「いや、今泉さんには随分助けられている」
というのは、桐生市内のある機屋さんである。今泉さんに作ってもらった架物は狂いにくいし、長持ちする、というのである。何故だろう?
ナス管から下がる通じ糸を間違いなく配列するための目板は、木製の枠の間に、必要なだけ穴をあけた小さな目板を複数枚通して固定してある。普通はそのまま使うのだが、今泉さんは一工夫加えた。小さな目板を1枚ずつ、釘で枠に固定するのだ。
※枠に小さな目板を固定したものも目板という。これからは枠で固定された物を「大目板」と呼び、穴の空いた個別の板を「小目板」として区別することにした。
「小目板はほとんどが木製なんで、使っているうちに水気を吸って伸びちゃうんだよ。そうすると穴の位置が微妙に変わって、その下に下がっている綜絖の位置が狂い、ついには経糸と経糸の隙間が違ってくる。1枚ずつ釘で止めておけば、少しでも狂いを少なく出来るんじゃないかと思ってね」
自分で考えた工夫である。同じ仕事をしていた兄にも
「釘で止めた方がいいんじゃないか?」
といったことはある。しかし、まだ今泉さん独自の工夫に止まっている。
【お勧め】
「金はかかるけど、できれば木製の小目板ではなくて、ファイバー製の小目板を使った方がいい。少なくとも両端の板はファイバー製にしなさいよ」
今泉さんは、架物を注文してきた機屋さんにそう声をかける。どちらを使おうと今泉さんの手間賃が変わるわけではない。それに、木製の標準的な小目板でも長さ20㎝で1万数千円する。穴が小さくなるとさらに高くなる。ファイバー製になるとその3倍はするから、コストが跳ね上がる。
では、自分の利益にはならず、コストアップを招いて機屋さんからは嫌われかねないファイバー製を何故勧めるのか。
ナス管から下がった通じ糸は、漢字の「八」の字がたくさん重なった形になる。外の糸になるに従ってより深い角度で穴に入る上、ジャカードの上下に伴って小目板の穴の一部とよけにこすり合う。1分間に数百回の摩擦で小目板の穴に溝ができるのは避けられず、深い角度とより多くの摩擦に晒される外側の小目板には深い溝ができる。そして木は摩擦に弱く、ファーバーは強い。
「目板にできる溝は通じ糸が切れる原因になる。だから少なくとも外側の小目板は、固いファーバー製にした方が長持ちするんだよ」
確認、確認、確認 今泉機拵所の2
【見よう見まね】
家業を手伝い始めたのは中学3年の頃だった。当時の今泉家には広い田畑もあった。機拵えを手伝い、仕事に空きができると百姓仕事に精を出す。今泉さんの職業生活はそんな始まり方をした。
「百姓仕事の方が良かったよ。だってお日様が隠れると仕事が終わる。あとは風呂に入って飯を食えば1日終わり。機拵えの方は夜の10時頃まで続くからねえ」
とはいえ、主な仕事は機拵えである。父母、兄姉と一緒に作業場に入る日の方が圧倒的に多かった。
仕事はまず、機屋さんに渡された設計図を読むことから始まる。何本のワイヤリューズがあるジャカードを使うのか。織る布の幅はどれほどか。その横幅の中で紋様の繰り返しは何回か。
紋様の繰り返しが8回なら、ワイヤリューズの先に付くナス管1つから8本の通じ糸が下がる。4本の通じ糸をちょうど真ん中で束ねてよじり、結んで輪っかを作る。よじるのは輪っかの部分で通じ糸がばらけないようにするためだ。その上、ここをニスで固める。1008本のワイヤリューズが出ているジャカード用なら、1008組の通じ糸の束を作る。
作業所には、1008本のワイヤリューズとナス管が出ている器具が天井近くに設置してある。ジャカードの代わりである。この1008本のナス管に、用意した通じ糸の束を引っかけていく。
それが終われば、1008×8=8064の穴が空いた目板に、通じ糸を1本ずつ通す。最も神経を使う作業工程である。
ナス管からは左右に4本ずつ通じ糸が出ている。この4本が絡まっていると、織機での1分回に数百回の上下運動で糸同士がこすれあって切れてしまう恐れがある。
さらに、通す目板の穴を1箇所でも間違えれば、ジャカードからの司令が違った綜絖に伝わることになる。ジャカードは経糸Aを引き上げよ、と指令を出すのに、実際に引き上げられるのは経糸Bになってしまっては、布は織れない。
正確さ。それが機拵えという仕事のAでありZなのだ。
だから、今泉さんに聞いてみた。
——仕事を始めた頃、お父さんからは、「間違えちゃいけない」って、随分しつこく言われたでしょ。怒鳴られたりしませんでした?
今泉さんはひょうひょうと答えた。
「いや、仕事は何にも教えてくれなかったね。私に任せっきり。自分も見よう見まねで始めたから、私も勝手に覚えるだろう、と思ってたんじゃないかな。もともと単純な仕事だしね」
確認、確認、確認 今泉機拵所の1
【架物(かぶつ)】
布の模様を自動的に織り出すジャカード織機の司令塔は、織機の最上部に取り付けられたジャカードである。ジャカードは紋紙の穴を読み取り、どの経糸(たていと)を引き上げるのかの指令を次々に出し続ける。
だが、ジャカードがいくら指令を出しても、それを織機に伝える仕組みがなければ意味がない。この、ジャカードが出す指令を織機に伝える仕組みを「架物」という。
広辞苑第三版で「かぶつ」を探すと、「下物」「果物」「貨物」しかなく、「架物」は出て来ない。
ネットで検索すると1件だけヒットした。桐生市のホームページに「桐生織物の製造工程」があり、その11番目の工程「機拵(はたごしらえ)」の解説に「架物」が登場するだけで、他にはない。毎日布で体をくるみながら、その布が出来る過程には余り関心を払わないからだろうか。耳慣れない言葉である。
ジャカードには普通、1008本の「ワイヤリューズ」と呼ばれる針金が下がっていて、その先にJ字型の「ナス管」が付いている。大型の本板ジャカードと呼ばれるものはワイヤリューズが約1300本に増える。
この「ナス管」に引っかける「通じ糸」と呼ばれる糸が「架物」の本体である。いまでは日本で「通じ糸」に使う糸を製造するところはなくなり、全てスイスからの輸入に頼っている。撚り糸と、価格がその3倍はする組紐の2種類がある。撚り糸は伸びやすく、組紐は伸びにくい。経糸(たていと)を上下に分ける綜絖(そうこう)へジャカードの動きを正確に伝えるには「通じ糸」は伸びないにこしたことはない。しかし、どちらを選ぶかは「架物」を発注する機屋さんの選択である。
織物は繰り返しの絵柄が多い。例えば幅120㎝の織物で、同じ絵柄が横に8回繰り返されるとする。その場合、1つのナス管に8本の「通じ糸」が取り付けられ、「目板」と「呼ばれるたくさんの穴(ジャカード全体から下がる通じ糸の数と同じであることはもちろんである)があけられた板の穴を通して綜絖の上につけられたカタン糸に結びつけられる。これでジャカードからの1つの司令で8回繰り返す絵柄が一度に織れるようになる。
この穴に通す通じ糸を1本でも間違えると織柄に傷が出来る。1008本のナス管に8本ずつの通じ糸が下がれば総数は8000本を越す。絶対に間違わないように糸を導く仕事は神経が張り詰める。
また、通じ糸をカタン糸に結ぶ際、1回結びにすると通じ糸の先端が上を向く。綜絖が上下しているうちに、この上を向いた先端が隣の経糸を持ち上げてしまう事故が起きることがある。2回結びにすれば糸の先端を下に向けることが出来るが、時間が3倍はかかってコストが上がる。収縮チューブで結び目を覆えばもっと安全だが、コストがさらに跳ね上がる。安全をとるか、安さをとるかも機屋さんにかかっている。
織機に取り付けたとき、綜絖はきっちり同じ高さに揃わなければならない。「架物」を作る仕事を機拵え(はたごしらえ)というが、通じ糸の長さ調整して綜絖を並べるのは機拵えさんの腕の見せ所だ。
機拵えさんは作業場で作った「架物」を注文主の機屋さんに持ち込み、織機に設置する。現地で通じ糸の長さを最終調整するのはいうまでもないが仕事はそれだけでは終わらず、設置した綜絖1本1本に経糸を通し、さらに緯糸を手前に寄せる櫛のような形の筬(おさ)の羽の間を通して完了する。
SDGs 岡田和裁研究所の3
【共衿の回し掛け縫い】
東京で和裁の基礎を身につけて戻った成雄さんは、桐生に戻ると両親、なかでも五三さんからより高度な技をみっちり仕込まれた。全国でも最高ランクの和裁士で、技術のすべてを公開して多くの後進を育ててきた五三さんの教えは厳しかった。縫い上げて
「これでいい」
と思っても、五三さん目に不充分に映ったものは
「直せ」
と突き返された。五三さんの審査を通るまで裁縫仕事が続く。時計の針が12時を回ることが当たり前の日々が続いた。
「お前は、やがては私の後継者として岡田和裁研究所を率いる。技でも人の器量でも抜け出なければならない」
という愛の鞭だったのだろう。おかげで技はメキメキ上達した。それを見て安心したのだろう。五三さんは数年後、岡田和裁研究所を成雄さんに任せ、少し離れたところに和裁教室を開いて経営し始めた。
五三さんは指折り数えられる和裁の名人であり、改革者である。父の技をひたすら守り伝えていく、という生き方も成雄さんには可能だったはずだ。それでも和裁の名人と呼ばれるには十分だったろう。
だが、優れた職人は止まることを拒む。今を越えようという意思を職人魂という。
成雄さんが現代の名工に選ばれたのは「共衿(ともえり)の回し掛け縫い」という新しい技法を開発したからである。
和服を楽しまれている方々は、衿が二重になっていることをご存知のはずだ。衿は着物の中でも一段と目立つ場所にある。ところが、汗や化粧で汚れやすい場所でもある。だから、地衿と呼ばれる衿本体の上に、地衿と同じ生地で少し短い共衿をつける。汚れれば共衿を取りはずしてそこだけ洗えばよい。和服の知恵である。
目立つ場所だから、縫い目を見せてはならない。だからそれまで、共衿の端を少し折って地衿の上に置き、折り込んだ部分と地衿を縫い付けていた。針は共衿の下に隠れて見えないから、指先の感覚と勘だけが頼りの難しい縫い方だ。熟練者でも針が斜めに入る「流れ針」や、共衿の上に糸が出てしまう「白針」という失敗をしがちだった。
「こうしたら簡単に縫える」
と思いついたのは、第1回技能グランプリへの出場を考えていた昭和57年(1982年)のことだった。
「裏返して縫えばいいじゃないか」
布で袋を作る事を考えていただきたい。1枚の布を2つに折り、両端を縫えば袋になる。この時、表地を外にして縫う部分を折り込み、折り込んだ部分を縫うのと同じ作業がそれまでの共衿の縫い付けだった。
しかし、裏地を外にして両端を縫い、縫い終わったらくるりとひっくりかえせば縫い目は見えない。共衿も同じ縫い方にすればいい。これなら、運針の基本さえできていれば、誰でも共衿をつけることができる。
あとで解釈すれば簡単なことかも知れない。だが、1000年を越える和服の歴史で、成雄さんが初めて考えついた画期的な技なのだ。
こうして成雄さんは、五三さんに続いて現代の名工に選ばれた。同じ和裁士として研究所の運営に力を合わせてきた妻恵子さんの力添えがあったのはもちろんのことだ。