徳川家康が亡くなったのは元和2年(1616年)4月17日である。恐らく自分の死期を悟っていたのだろう、家康は4月2日、本多正純、天海、金地院崇伝を呼び、遺言を伝えた。
「一,一両日以前、本上州(本多正純)、南光坊(天海)、拙老(崇伝)御前へ被為召、被仰置候は、御終候はゝ、御躰をハ久能へ納、御葬禮をハ増上寺ニて申付、御位牌をハ三州(三河)之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後、日光山ニ小キ堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守に可被為成との御意候。皆々涙をなかし申候」(金地院崇伝の「本光国師日記」より)
2代将軍徳川秀忠はこの遺言に従い、日光に小さな堂を建てて日光東照宮を創建、元和3年4月、家康の遺体を久能山からここに遷した。
現在の壮麗な日光東照宮を作ったのは3代将軍家光である。家光が「小キ堂」という遺命に背いてまで建て替えたのは、祖父家康を厚く敬ったためだろう。
こうして不要になった日光東照宮の古い社殿は、新田氏の開祖、新田義重の居館跡といわれる上野国世良田(いまの太田市世良田町)に移された。徳川家康は新田氏につながる世良田氏の末裔を自称しており、世良田氏はこの地を本拠地としていた。いわば家康ゆかりの地に古社殿が移されたのである。寛永21年(1644年)のことだ。
ここを「世良田東照宮」という。
「悦子さん、世良田東照宮までドライブしてみようか」
森村さんが妻の悦子さんに声をかけたのは、新型コロナウイルスの騒ぎが始まるずっと前だったから、2015年前後のことである。
世良田東照宮は子供の頃から知っていた神社である。徳川家康が祀られていることも知識としてあった。
「いまは参拝客もずいぶんあるようですが、あのころはすっかり寂れていましてね」
その世良田東照宮に行ってみようと思い立ったのは、懸命に徳川家康を調べていたからだろう。といっても、この神社で何か新しい発見があると期待したわけではない。ただ、何となく行ってみたくなっただけである。
駐車場に車を止め、参道を歩く。世良田東照宮は重要文化財の固まりである。日光東照宮奥社拝殿として造営された「拝殿」、日光東照宮奥社拝殿の前にあった「唐門」、左甚五郎作、狩野探幽彩画の彫刻「巣籠りの鷹」がある「本殿」、日本一の大きさを誇る「鉄灯籠」。境内を巡り、宝物保管陳列所でこれも重要文化財である太刀などを見た。寛永13年(1636年)、後水尾上皇が日光東照宮に奉納したといういわれのある太刀で、鎌倉時代末期の刀工、了戒が鍛えた名刀だ。
見物が一段落すると、お守りなどを売っている案内所で手渡されたパンフレットに目が行った。「世良田東照宮のご案内」とあり、由来や御祭神、祭事などがまとめられている。
何の気なしにパンフレットをながめていた森村さんの目が、左下に描かれた地図に吸い寄せられるまでに時間はかからなかった。本州の中央部を描いた地図上に、久能山から富士山、世良田を通って日光の男体山まで直線が引かれ、「不死の道」と書かれていた。略図なのでよく分からないが、森村さんは直感した。
「この不死の道、桐生新町に浮き出た謎の斜めの線と重ならないか?」
あわてて解説文を読んだ。
久能山に祀られた一説
久能山の西方一直線上には薨去した駿府城、母親「お大の方」が子授け祈願した鳳来山(東照宮)、生誕の地、岡崎(東照宮)が東西一直線上に並んでおり、家康公の墓所である神廟は西を向いて建っています。これは太陽が東から西に沈む。そして、再び東に再生する、つまり,久能山にお祀りすることは、人として没した家康公が、「太陽」の如く、ふたたび「神」として再生するための葬送の地であったのです。
日光山に祀られた一説
〇政治の中心、江戸から日光は宇宙の中心と考えられた北極星(宇宙を主宰する神=天帝の宮殿があると信じられた)・真北の方角にあります。このことは、東照宮は宇宙の中心軸線上に祀られたことになり、その神格は「宇宙を主宰する神」と一体化されたことを意味しています。
〇久能山の神殿は北北東を背にして建ち、その背後には富士山、更に延長すると世良田、そして日光に至ります。これは久能山に神として再生された家康公が富士(不死)の山を越えて永遠の存在となり、遠祖の地を通り、宇宙の中心軸線上に鎮まったと言うことです。
読み終えた森村さんはホッと息をついた。
「私、大変なことを見つけてしまったのかも知れない」
写真:世良田東照宮