「117クーペ」 大塚パンチングの1

【パンチング】
フランスの発明家、ジョセフ・マリー・ジャカールが、後にジャカード織機と呼ばれる自動織機を発明したのは19世紀の初め、1801年のことである。
織り柄のある布を織るには、織機に張った経糸(たていと)の必要なものだけを引き上げ、残った糸との間に出来た隙間に緯糸(よこいと)を通す作業を繰り返す。長年、経糸の引き上げは人力に頼っていたが、ジャカード織機はそれを自動化した。
ジャカード織機を制御するのは穴を空けた厚紙(紋紙という)で、これを装置にかけると穴を空けた部分に対応する経糸が引き上げられる。当然、どのような紋様を織り出すかで紋紙の穴の位置が変わる。紋紙を作る工程をパンチングといい、穴の位置の正確さが求められた。
この機構をミシンに応用したのが、刺繍を自動化したジャカードミシンである。やはり紋紙が必要で、針を落とす位置に加え、そこからどの方向に、どれだけの距離だけ糸を走らせるかなどの情報を紋紙に空けた穴で表す。この情報に従って、刺繍する布を固定した枠が動いて紋様を刺繍する。
穴があるかないか、つまり0と1で情報を表すのはコンピューターの動作原理と同じだ。だから、いまのジャカード織機、ジャカードミシンの多くがが紋紙を離れ、コンピューターで制御するようになったのも不思議ではない。
だから、かつては文字通り厚紙に穴を空ける仕事だったパンチングが、いまではコンピューターを動かすデータを入力することに変わった。刺繍屋さんに渡すもの穴の空いた紙からフロッピー・ディスクに変わり、時にはメールに添付したファイルで納品する。それでもこの仕事がパンチングと呼ばれるのは長年の習慣によるものだろう。

【曲線】
その日、大塚パンチングの応接室にコンピューターがセットされていた。口での説明では飲み込みが悪い筆者に、近藤稔代表が痺れを切らしたのだろう。百聞は一見に如かず。目の前で実演してやれば何とか理解させられるのではないか。

ディスプレイ上でカーソルが動く。

「こうして、刺繍する範囲を指定してやると、あとは自動的にコンピューターがやってくれます。糸を密にするかまばらにするかも数値を入力するだけです。作業が随分楽になりました」

パンチングがコンピューター化されるまでは大変な仕事だったという。作業台に6倍に拡大した図案を広げる。その上にアームが伸び、手元の左右にあるハンドルを回して針を落とす位置にアームの尖端を持って行く。位置が決まればボタンを押す。すると、アームに仕掛けられた装置で、台の横にある紋紙に穴が空く。穴の位置が少しでもずれると刺繍の仕上がりに響くから、息を止めるほどの真剣勝負だった。

「やり始めたら、周りの音が全部消えてました」

ディスプレー上に表示されデザイン。これを元に作業を進める。

それが、コンピューターを使えば、スキャナで読み込んだ図案をディスプレイに表示し、その形に沿ってカーソルを動かせば誰にでも正確なパンチングができる。近藤さんが

「楽になった」

というのも頷ける。この250万円もするソフトウエアは、パンチングを業とする人はほとんど使っているそうだ。

手作業で紋紙に穴を空けていた頃は、少なくとも3年は修行をしないと使いものいなる紋紙はできなかったといわれる。それが今は、ひょっとしたら筆者にもいますぐにこなせるかもしれない作業になった。

180台の特殊ミシン シャオレの3

【機械職人】
桐生で刺繍を家業とする家に生まれた。5人兄妹の末っ子である。幼いうちにひとり亡くなったが、いずれにしても家業を継ぐ立場にはない。いずれは家を出て自立する。櫻井さんは東京の大学に進んだ。
選んだのは建築課である。建築家になって住宅やビルを設計する。そんな未来図を思い描いた。

学びが始まった。しかし、面白くない。

「毎日、図面、図面で図面ばっかり描かされた。嫌になってね」

それでは、と機械科に鞍替えした。

「機械なら面白いんじゃないかなと思ったのに、ここでも図面、図面の連続。同じことの繰り返しで、この道も俺にあわないな、と」

次の転戦先は経済部である。経営手法を身につけたいと思ったのだが、

「なんか数字や数式がいっぱい出てきて頭の中がこんがらがっちゃって、あ、俺には学問は向いていないんだ、と気が付いたのさ」

大学を2年で中退、とりあえず実家に戻って手伝いを始めた。それが櫻井さんの前半生である。子供の頃から機械いじりが好きで時計やラジオを分解しまくったという想い出もない。プラモデルなんてほとんど作ったことがない。
そんな櫻井さんが、ミシン屋さんの専門家も嫌がるミシンの調整を楽々とこなす。必要なパーツを、時には朝の2時、3時までかかかって作り出す。その間、周りの音は耳に入らない。
大学の機械科でも辛抱出来なかったのに、櫻井さんはいつの間に「機械職人」になったのだろう?

30歳少し前、念願の独立を果たして鋳物を始めた。川口市で鋳物会社を経営する叔父がいて景気がよかった。母の勧めもあってそこで仕事を覚え、桐生の自宅を出てみどり市笠懸町の今の場所に鋳物工場を作った。
ところが2年もたたないうちに石油危機に襲われた。仕事が激減し、仕方なく工場は閉めた。
さて、何をしよう?

刺繍の道を選んだのは、やっぱり育った環境のためだろう。子供の頃から工場の手伝いをさせられた。

「だから、ミシンの構造は何となく頭に染みついていたね」

180台の特殊ミシン シャオレの2

【職人? 私はそんなんじゃないよ】
初めて訪れたとき、取材の趣旨を説明するのは記者の義務である。貴重な時間を割いてお話を聞かせていただくには欠かせないことだ。

「桐生は繊維加工の優れた技が集積している、世界でも希有な街だといわれます。それなのに、ではどんな技があるのか、どんな職人さんが一つ一つの技を担っているのかが驚くほど知られていない。桐生が誇るべき職人技をもっと広く伝えたいと思いまして」

取材先によって様々な反応が戻ってくる。

「職人技? いや、私はそんなたいしたことはしてませんよ」

が最も多い。次によく聞くのはこんな言葉である。

「そんなところで取り上げていただけるような技はありません」

突然の来訪者への謙遜もあるだろう。同時に、日々の仕事をきちんとこなしながら、

「もっとうまいやり方はないかなあ」

と工夫に工夫を重ねるのが当たり前の毎日だから、優れた技を駆使しているという自覚が生まれにくいのかも知れない。

そんな反応に慣れっこになっていた私には、櫻井さんの言葉は新鮮だった。

「特殊刺繍の職人技? 俺にはないよ、そんなもの。だって、それ用のミシンがあれば誰にだって出来ちゃうし、そもそも俺はミシンに30分も向かっていると眠くなって休憩しちゃうんだから」

そして言葉を重ねた。

楽しそうにブランケットを縫う裕見子さん

「ここに研修に来る学生さんもいて最初は俺たちが縫ったサンプルを見てビビってるけど、『簡単だからやってみなよ』と勧めると、ミシンに向かって縫い始め、『あ、私にも出来るんだ』って喜んじゃうのよね」

私も180台のミシンの1台の前に座らされた。

「このレバーを足で踏むとミシンが動き出す。このレバーを右手で動かすと、ほら縫い目があちこちに曲がって模様が出来るでしょ」

確かに縫えた。仕上がりは、贔屓目にも立派とは言えなかったが。

「じゃあ、ほかのところで出来ない特殊刺繍が櫻井さんでは何で出来るんですか?」

180台の特殊ミシン シャオレの1

【特殊刺繍】
手元にある広辞苑第3版によると、刺繍とは

「(『刺』は針で縫うこと、『繍』は衣に紋様を施すこと)布地に色糸で絵画や模様を縫い表すこと。また、そのもの。ぬい。ぬいとり」

とある。
ポロシャツや靴下のワンポイントマーク、スカジャンの背中、花嫁衣装の打掛、それに趣味としての刺繍など、普通イメージする刺繍はこの定義の範囲内にあるものだろう。刺繍職人として初めて現代の名工に選ばれた桐生市の大澤紀代美さんの刺繍絵画はその集大成とも言える。
だが、どうにもこの定義からはみ出してしまう刺繍がある。布に穴を空けて穴の周りをかがり、その穴で模様を描く刺繍。布を縁取りしながら飾る刺繍。スパンコールを縫い付ける刺繍。生地同士を縫い合わせる刺繍では縫い合わされた部分は梯子状の装飾になる。逆に生地を切り離してテープを作る刺繍。テープの両端が縁取りで飾られているのはいうまでもない。こうした「刺繍」の一般的な定義には収まりきれない刺繍を「特殊刺繍」と総称する。
特殊な刺繍には特殊な刺繍ミシンを使う。特殊ミシン1台で出来るのは1種類の刺繍だけ。だから、求められる特殊刺繍の数だけミシンが必要になる。1台、あるいは数台の特殊ミシンを持つ刺繍屋さんは多いが、シャオレは何と180台もの特殊ミシンを持つ。一般的に需要が多い特殊刺繍は50種類前後といわれる。だから、1台、数台のミシンで特殊刺繍をする刺繍屋さんのほとんどがこの50種類に集中するのは当然の流れである。こうした刺繍屋さんを専門店に例えれば、180台のミシンを持つシャオレは、専門店を集め、ほかにはあまりない特殊刺繍も品揃えした総合デパートといえる。

【頼みの綱】
岡山のメーカーから薄手のハンカチの三巻加工の注文が入ったのは2021年9月のことだった。三巻(みつまき)加工はハンカチの縁を思い浮かべていただければ解りやすい。生地の端がほつれないように2回折り、三重になったところを縫う加工をいう。普通は縫製屋さんの仕事だが、単純に縫うだけでなく装飾も加えたいとなると、特殊刺繍の出番となる。

三巻加工をする櫻井さん

依頼されたのは透き通るほど薄い生地で、目も粗い。櫻井省司代表は

「フニャフニャの生地」

と表現した。多分、それなりに価格のはるお洒落なハンカチとして販売されるのだろう。

実は、薄くて目の粗い生地は縫製屋さん、特殊刺繍屋さん泣かせである。ミシンに特殊な部品を付けて自動的に2回折りしながら縫うのだが、目が粗いとなかなか思ったように2回折り出来ない。生地の糸と糸の間が離れているため隣の糸に釣られて同じように折れてくれにくいからだ。三重になった部分が太くなったり細くなったりしては商品にならない。
また薄い生地も問題含みである。下手にミシンで縫うと、生地が縫い目に引きずられて歪んでしまう。

「岡山も繊維製品の産地ですから特殊刺繍をするところはあると思うんだけど、何故かわざわざ輸送費をかけてまでうちに注文が来るんだよね」

櫻井さんは妻の裕見子さんと2人だけの工場で、ひょうひょうとミシンに向かって仕事をこなす。

枠を越える 平賢の3

【鯉昇り】
平賢の創業は昭和33年(1958年)12月。3代目の平田伸市郎さんが経営の舵を取る。小山さんの義父である。

小山さんは望んで平賢に職を求めたのではない。大学を出ると群馬県館林市の蕎麦屋に就職した。この店の蕎麦に惚れ込み、

「蕎麦職人になる!」

と選んだ仕事だ。ところが半年を過ぎた頃、進路に疑問を持ち始め、仕事を辞めた。すでに結婚していた。さて、どうやって2人の暮らしを立てようか。そんな時、新妻のとも恵さんがいった。

「私の実家は染色業なの。しばらく働いてみる?」

そういえば、そんな話を聞いたなあ。でも、興味がなから忘れていたわ。しかし、とりあえず仕事がない。やりたいことが見付かるまでやってみるか。
軽い気持ちで職人の修行を始めた。2007年のことである。

あれは、平賢で働き始めて何ヶ月たった頃だったろう。小山さんの目が工場で先輩職人が染めた鯉昇りに釘付けになった。白地に目玉、うろこ、髭が染め抜いてある。朱、ピンク、黒、グレー、そして金箔が大胆に使われていた。

「何だ、これは! とにかく美しい。こんな物を染めてみたい、って何故か目が吸い付けられまして。人生であんな衝撃を受けたのは初めてでした」

学生時代、何度か美術館に足を運んだことはあるが、美術がそれほど好きなわけではなかった。授業で描かされる絵を除けば、自分で絵筆をとったこともない。あの時、

「天職に巡り会った!」

という確信が生まれたのはいったい何故だったのだろう?
腰掛け気分だった修行が、その日から真剣勝負になった。

素材による染料の選び方、接着剤、水との調合の仕方、色作り、シルクスクリーンに乗せた染料を延ばすへらの選び方、力の入れ方、動かす速度……。学ぶことは山ほどあった。天気、気温、湿度などで染め上がりに差が出ることに気付くと、夜パソコンに向かってデータベースを作り始めた。毎日が楽しくて仕方がなかった。