枠を越える 平賢の2

【ドラえもん】
2020年2月、東京ビッグサイトで第91回東京インターナショナルギフト・ショーが開かれた。それまでこんな展示会に出ることは考えたこともなかった。捺染業が下請けであるかぎり、出る必要はなかった。

だがこの年、小山さんは

「そろそろ出てみようか」

と準備を進めていた。数年前から、オリジナルの手ぬぐいを作り始め、桐生のえびす講や夏祭、桐生市内で春、秋に開かれるイベント「いとや通り いらっしゃいませ」に店を出し、展示会も何度か開いた。1本1000円を超す、決して安いとは言えない値付けをしたオリジナル手ぬぐいに客がつき、何となく手応えを感じ始めていた。だから

「これなら、東京でも行けるかも知れない」

と思い立ったのだ。

デザインもオリジナルの手ぬぐいを数多く展示した。Tシャツを染めてくれ。バッグの生地をやって欲しい。初の出展にもかかわらず、結構商談が進んだ。

「やっぱり出てよかった」

と自信を持ち始めた頃、フラリとブースに入って来た客がいた。

「私、ドラえもんの手ぬぐいをインクジェットでプリントして売っています。結構売れるので、もっとちゃんとした手ぬぐいを作りたくなりました。手ぬぐいといえば捺染。ここの展示品を見て平賢さんにお願いしたくなりました」

ドラえもんといえば子供の人気が衰えない永遠のキャラクターである。それを平賢で染める。願ってもない話だ。

「展示品を見ると、金箔で染めることも出来るんですね。金箔で描かれたドラえもん、作りましょうよ」

これは平賢が変わるチャンスだ。話を聞きながら小山さん頭の中で、カチリと音をたてて歯車が廻ったような気がした。

「ありがたい話です。ただ、お引き受けするについて、2つお願いがあります。聴いていただけますか?」

お願い。
金箔で染めるのは平賢独自の技術である。だから、平賢で染めたことを明示していただきたい。染め上がったドラえもん手ぬぐいを平賢でも販売したい。

枠を越える 平賢の1

【捺染】
布の染色法は「先染め」と「後染め」に大別出来る。先染めは布にする前、つまり原料や糸の段階で染め、機屋さんは色の付いた糸で織ったり編んだりする。後染めは布に仕上げた後で色をつける。
「捺染(なっせん)」は後染めの手法の1つである。「捺」とは、押す、押さえつける、という意味で、染料と糊などの接着剤を混ぜ、布に押しつけて染める。木版や銅版に色を載せて紙や布に写す版画や、活版印刷も「捺染」の仲間といえる。原理が簡単なためか捺染の歴史は古く、紀元前2000年頃にはヨーロッパで使われていたといわれる。
繊維製品の捺染には、凹凸のついたローラー(こちらに染料を乗せる)と圧着用のローラーの間に布を通して染める機械捺染と、すべてを手作業で進める手捺染がある。手捺染はシルクスクリーンを張った型枠の上に置いた染料をへらで伸ばして1枚ずつ染める。シルクスクリーンはメッシュになった織物と紫外線で硬化する感光剤の2層構造で、染める絵柄を何かで覆って紫外線に晒したあと洗うと、紫外線を浴びていない部分の感光剤だけが洗い流され、染料を通すようになる。少し年配の方なら、ガリ版印刷と同じ仕組みといえば頷いていただけるのではないか。
平賢は手捺染専業である。五月の空を泳ぐ鯉昇り、夏を彩る祭半天を染め続けてきたが、少子化や庭のない暮らしが広がって鯉のぼりの需要が減り、経営環境は年々厳しさを増す。愚痴の一つも出て来そうな時代だが、小山哲平専務は「逆境こそチャンス!」といわんばかりに新規分野の開拓に取り組む。「捺染で、もっとできることがあるはずなんです」。2020年、その努力が小さな芽をつけ始めた。

【常識破り】
捺染業というのは、依頼主の注文に従って布を染める仕事である。どれほど技を凝らして染め上げてみても、何処にも染め主の名は現れない。同業者間の競争に晒されて値引きを迫られ、工賃の決定権もない。典型的な下請け仕事である。平賢も例外ではなかった。

だから、その注文が入った時、小山さんは自分の耳を疑った。

「予算が100万円以上あります。この金額で染められる枚数だけ染めて下さい」

2020年秋の中頃である。まず電話で

「ご相談したい」

と接触があり、1週間もたたないうちに来桐した担当者がそう切り出したのだ。予算内で染められる枚数だけ? 極端な話、

「1枚しか出来ません」

ということだって出来る。捺染業界からすれば、常識破りの注文である。

織物で描く「絵画」 アライデザインシステムの3

【本当の職人は】
それなのに、経営を引き継いだ新井伊知郎さんは

「オヤジが職人ねえ、うーん。絵画織が認められて日本伝統工芸士会の副会長にはなりましたけど、あれはオヤジの道楽じゃないかな。本当の職人はオヤジを支えた彼女たちだと思うんだけど」

と言い放った。彼女たち、とは、伊知郎さんの妻・千夏さんと、一緒に働く前田寿美恵さんである。2人は絵画織のもとになる画像データを、織機を制御するコンピューター用のデータに落とし込む。

「私も伝統工芸士ですが、私にしてもオヤジにしても、ここはこうしたい。ここの色はこうだ、というだけ。言われたような織り上がりになるよう、あれこれ工夫しながらプログラミングしてくれるのはこの2人なんですよ。2人がいなかったら、絵画織もあり得ないんです」

コンピューターで作業する千夏さん

そこで、お二人の仕事をつぶさに見せていただいた。

千夏さんの話によると、初期の頃は画像をスキャナで読み取って下絵にしていた。しかし、スキャンした画像は解像度が低く、拡大すると色が変わるところでジャギー(階段状のギザギザ)が生まれ、処理が大変だったという。

だが、いまは元の絵は高解像度のデジタルデータで持ち込まれることが多く、あの頃に比べれば作業の手間はほんの少し減った。

いま2人の仕事は、色の分解から始まる。この絵にはいったいいくつの色が使われているのか。その色を織物でどう出すのか。コンピューターのアプリに任せるという選択もあるが、

「まだ能力が低くて使えません。やってみたことはあるのですが、ここのメンバーの誰ひとりとして、『これでもいい』とは言いませんでした」

だから、手作業である。

どの色を組み合わせるか。打ち合わせをする千夏さん(左)と前田寿美恵さん

織機も進化したとはいえ、いまでも緯糸に使えるのは12色が限界だ。元の画像に使われている数十、時には100を越える色を、たった12色で表現しなければならない。織物の層は4層である。黒と赤を重ねれば茶色になるが、この茶色は黒を何層目に、赤を何層目に入れればいいか。薄い紫を出すのに赤と青の重ね方をどうするか。元の画像に使われている色を見ながら、一つ一つ決めていかねばならない。そもそも、赤、青、黄色といってもそれぞれ沢山の彩度がある。目の前に或る画像に最適な赤、青、黄色を選び出さねばならない。

織物で描く「絵画」 アライデザインシステムの2

【中国陝西省文物展】
群馬県高崎市にある群馬県立歴史博物館で「中国陝西省文物展:悠久の遺産」という企画展が開かれたのは1987年(昭和62年)のことである。その年のはじめのことだった。

「新井さん、あなたの織物に色はつけられませんかね」

そんな打診をしたのは、群馬県庁の職員だった。文物展で販売する記念品を考えている。群馬は絹の産地、そして織物の産地だ。だから、出展される兵馬俑や唐三彩を織物に出来たら素晴らしいと思うのだが、兵馬俑はいいとしても、唐三彩は色が命。あなたが織っている絵画のような織物に色はつけられないか?

腕に覚えのある職人は、

「出来るか」

と問われて

「出来ません」

という一言は口が裂けても吐かない。實さんは

「やってみましょう」

と引き受けた。引き受けた以上、話を持ち込んだ県職員の期待を上回るものの織り上げてやる、と意気込むのも職人である。

新井實さんが織り上げた兵馬俑

経糸(たていと)は白にし、色は緯糸で出す。緯糸を黒と白に限ったモノクロの絵画織りでは32のパターンでうまく行った。工場にある織機は12本の緯糸を使うことが出来るから12色をつけるのはたやすいが、それでは薄っぺらくなる。どうやって深みを出すか。

實さんは織物を四層構造にすることを思いついた。糸の色をそのまま出すには一番上に緯糸を通せばいい。そうではない色が必要なら、白を入れて5、6色の糸を重ねる。白の経糸のすぐ下に赤い糸を通せば薄い赤になり、白、白、赤と重ねれば赤はもっと薄く見える。青と黄を重ねれば緑が出るし、青と赤なら紫である。

まだコンピューター制御のジャカード織機は普及していないころである。ジャカード機で経糸を上下に分ける綜絖は、分厚い紙に穴を開けた紋紙で制御していた。紋紙は穴のあるなしで0が1か、綜絖を上げるのかそのままにしておくのかの信号を出す。

實さんは紋紙に穴をあける専門職人を雇い入れた。自ら設計した織りを、紋紙に移してもらう。そして、織る。

「まだ粗いな」

そのたびに、紋紙を作り直す。修正に修正を繰り返して織り上げた作品は、織物とは思えないほど唐三彩を写し取っていた。絵はがき大の、しかも彩色は織った後で施す中国製と違い、33×44㎝の堂々たる大きさで、後手間の要らない織物である。博物館の企画展で額装して販売した。

「えっ、これ、織物なの?」

期待以上の売れ行きだった。

織物で描く「絵画」 アライデザインシステムの1

【絵画織】
衣・食・住。それ無しでは暮らしが成り立たないギリギリの要素を、私達はそう呼び習わしてきた。体毛が薄い私たちが寒さから身を守るには衣服が必要なのは確かだが、生きるためにまず必要なのは「食」ではないか? しかし、3要素のはじめに「衣」を据えたのは、四季の寒暖がくっきりした日本列島で生をつないできた私達の先祖の美意識が埋め込まれているのかも知れない。
かつては動物の毛皮を身にまとっていた先祖たちは、やがて紡いだ糸で布を織る知恵を身につけた。毛皮に比べて、寒暖に応じて重ねたり、脱いだりするのが簡単である。当初は厳しい自然から体を守ることが出来さえすればよかった「衣」も、時代が下るにつれて技に磨きがかかって模様や織り柄が入り、色も多彩になって絢爛たる美を競い始める。桐生はその波に乗って織都になった。
昭和から平成に年号が変わる頃、
「織物はもっと美しくできるはずだ」
と考えた職人が桐生にいた。アライデザインの先代、新井實さんである。
織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させる。織物に色柄をつけるのは主に緯糸の役割である。新井さんは経糸の上に現れる緯糸を「ドット」として見ることを思いついた。パソコンに接続したプリンタが打ち出す文書や写真は「ドット」の集まりである。そうであれば、織物で「点描画」が描けるはずだ。
それまでの織物では見られなかった精細度を持つアライデザインの独自技術「絵画織」はその時産声を上げた。

【婆娑羅像】
新井實さんが知り合いに絵はがき大の織物を見せられたのは昭和60年(1985年)前後のことだった。

「これ、中国の織物でね。白と黒の糸で織り、後で色を塗って絵画のように見せてるんだよ」

織物は先染めした糸で柄を織るか、無地に織り上げて後で染めるのが常識である。だが、白黒の糸で織って、あとで白いところに色を塗りつけて絵のように見せるとは。織りは粗く、出来上がった絵も絵画「風」でしかなかったが、何故か實さんはこの手法に興味を持った。

「よし、うちでもやってみよう」

だが、仕事については人一倍凝り性である。中国の粗い織物の真似をする気はさらさらない。さて、この白黒の2色で下絵を作るような中国の織物を、どうひねってやろう? 考えているうちに、布の表に現れる緯糸を「ドット」と考えれば、もっと繊細な絵が描けるはずだと思いついた。精度を極めれば、後で色を塗らなくても水墨画のような織物が出来るはずだ。