布のマジシャン トシテックスの3

【相次ぐマジック】
プリーツとは、織り上がった生地にプレスをかけて入れるもの、というのが常識である。ところが、

「最初からプリーツが入った生地は織れないものだろうか?」

という思ってもみなかった注文が舞い込んだのは2010年代半ばのことだった。常識をまったく無視した注文である。普通の機屋さんだったら

「そりゃあ無理ですよ」

とにべもなく断るのが普通だろう。金子さんも一度は

「できません」

という言葉が喉まで出かかった。だが、次の瞬間、

「ひょっとしたらできかも知れないぞ」

という思いが浮かんだ。思い当たることがあったからだ。

まだ金子織物にいたときのことである。糸や織物についてすべてを知っているのではないか、という先輩の職人さんがいた。金子織物で営業を担当していた金子さんは、客から難しい注文が入ると、必ずこの先輩に相談を持ちかけていた。
ある時、その先輩がふとつぶやいた。

「おい、この糸を使ったら、プリーツのような織物が出来るよな」

先輩の手にはポリウレタンの糸があった。ポリウレタンはウレタンゴムとも呼ばれる伸び縮みする繊維である。
その先輩の言葉が頭に浮かんだのである。

金子さんは答えた。

「解りました。やってみましょう」

ヒントは先輩の言葉だけである。ポリウレタン繊維を使えば何とかなるはずだ。しかし、どう使えばいい?
ポリウレタン繊維の縮む力を使う。プリーツの折り目にするところだけ縮んでくれれば、織り上がったときにプリーツが出来るはずだ……。

試行錯誤を続けた。完成したプリーツの入った布は、織機から出てくると、ほとんど自力で小さく折りたたまれて棒のようになる。普通の織物は巻いて納品するが、このプリーツ付き織物は箱に入れて納品する。

「なんかねえ、ああでもない、こうでもないとやってるうちに出来ちゃってね」

注文主に無事納品した金子さんはさらに一歩を踏み出した。

「この原理を活かせば、編み物でもプリーツを付けられるんじゃないか?」

プリーツの入ったマフラー

こうして登場したプリーツマフラーは、誰でも知っている著名デザイナーが採用した。彼のブランドで店頭に並んでいるから、目にされた方もいらっしゃるかも知れない。

マフラーだけではない。ジャケットの背中にこのプリーツを組み込み、新しい感覚のファッションを作り上げたデザイナーもいる。

布のマジシャン トシテックスの2

【鎖を編み込む】
「こんなの、編めませんかね」

ヨーロッパから戻ったばかりだという東京の客が鞄から取り出したのは、幅が1㎝ほどのテープだった。良く見ると、テープの端は編んだ紐で、真ん中に金属製のチェーンが梯子状にかかっている。2007、8年のことだ。

「イタリアで買って来たんだけど、同じものが作れたら欲しいと思って」

金子さんの工場に備わっている編み機もイタリア製である。ひょっとしたらそれを知って訪ねて来たのかも知れない。

左右の紐を先に編み、それにチェーンを手作業で渡していけば出来るだろう。だが、そんなことをしたら工賃がかさんで商品にはならない。編み機でチェーンを編み込むことが出来るか。

「うーん、出来るかも知れないね。少し時間を下さい」

客が帰ると、金子さんは近くのDIY店に車を走らせた。先ほど見たのと同じような金属製のチェーンを買うためである。
戻ると編み機の前に陣取り、普通は糸をかけるところにチェーンを装着して編み機を動かした。

「なーんだ。簡単に編めるじゃないか」

やや拍子抜けだった。そこで止まっていたら、単にコピー商品が出来たというだけである。編み機から出てくるテープを見て、金子さんの中でムクムクと湧き上がるものがあった。チャレンジ精神と呼んでもいい。あるいは金子さんのどこかに生き続ける、子供っぽい遊び心だったか。

布のマジシャン トシテックスの1

【故新井淳一氏】
日本を代表し、世界的にも大きな評価を受けた桐生市のテキスタイル・プランナー。それまで誰も目にしなかったテキスタイル、つまり織物を数多く産み出し、三宅一生氏、川久保玲氏ら、国際的にも名高いデザイナーに素材を提供した。作品を集めた個展を国内外で幅広く開催し、世界のテキスタイルデザインを牽引したといわれる。また、国内繊維産地の技術アドバイザーを務める一方、美術・工芸大学の教壇にも立って後進の指導に力を注いだ。
一般的にはテキスタイル・デザイナーと呼ばれることが多いが、新井氏はデザイナーという言葉を避け、プランナーと称した。布地のデザインをするだけでなく、織り方を含めた織物の総合的なクリエイターであるとの自負からだったと思われる。
1983年、毎日ファッション大賞特別賞受賞。1987年には英国王室芸術協会から英国名誉産業デザイナーを与えられた。また2003年、英国芸術大学連合から名誉博士号を受け、経歴は栄光に包まれている。そのためか、新井氏を慕って県内外から桐生市に移り住み、繊維産業に飛び込んだ若者も数多い。いまや彼らが繊維産地桐生の中核になろうとしている。

【開眼】
トシテックスを経営する金子俊之さんも新井氏の影響を受けた1人である。といっても、同じ町で生まれ育った大先輩に、地の利を活かして教えを受けたというのではない。

「新井さんの作品を初めて目にした時、なんかこう、開放感みたいなものを味わったんですね。新井さんが創り出した物って、それまでの織物では考えられなかったものかりでしょ。伝統的な織物に囲まれて育った目に、ああ、織物ってこれでもいいんだ、これでも織物として評価されるんだ、って映りまして。ええ、世界が広がったように思ったんです」

金子さんは2000年、一族が経営する金子織物から独立した。東京・六本木で開かれた新井さんの個展に足を運んだのは独立する前のことだ。

「これでいいんだったら、私にも出来るんじゃないかな、ってね」

独立した金子さんは機屋を開業した。自分では織機を持たず、新しい織物を求める客と企画を練り上げ、纏まったら外注に出す仕事である。独立当初は順調だったが、時を追って仕事が減った。これはいけないと、イタリア製の編み機を導入して群馬大学、群馬高専と炭素繊維の編み物を水質浄化に活かす研究・開発を始めた。その後スカーフを編み始めたが、どれも思ったように行かない。
そんなとき、新井さんの作品を思い出したのは、あの時思いがずっと頭の片隅で生き続けていたのかもしれない。

化学を極める ホリスレンの3

【洗面器からの出発】
前回、スレン染料は素人に扱えるような代物ではない、と書いた。だが、ホリスレンの初代、堀照尉(てるい)さんは、ほとんど素人同然の状態でこの事業を立ち上げた。昭和36年(1961年)のことである。

桐生工業高校の定時制を卒業した照尉さんは桐生市内の機屋に職を得た。染色まで手がける機屋で、照尉さんは染め終わった糸を干す仕事を割り振られた。しかし、その程度の仕事では満足な給与はもらえない。見切りをつけて独立、染色業を始めたのは、糸を干す傍らで染色の仕事を手伝わされ、自然に技が身についていたからである。

といっても、満足な開業資金はない。染色用の機械を備えるなど夢のような話だった。思いあまった照尉さんは洗面器に染料を入れて糸を染めた。夜を日に継ぐように仕事をしたが、それでも染め上がる糸はほんのわずかでしかない。赤貧洗うが如し、という暮らしからなかなか抜け出せなかった。

「あんた、スレン染めをやってみないか」

声をかけたのは、市内で糸に撚りをかける仕事をしている知り合いだった。取引先の、パールヨットという新進の刺繍糸メーカーが、スレン染めが出来るところを探しているという。パールヨットは色の堅牢度が高いスレン染めの糸に特化し、評価をぐんぐん伸ばしていた。

スレン染め? 知らない言葉ではなかった。工業高校の授業でほんの2時間余り、実習したこともある。記憶によると、あの染め方は難しい。俺に出来るか? しかし、選択肢はなかった。それが出来なければ今の暮らしから抜け出す術はない。

市内にスレン染めをする所があると聞いて教えを請いに行った。高価なスレン染料を市内の販売店で小分けしてもらい、見よう見まねで染めてみた。参考書が欲しかったが、そんな本は見当たらなかった。
そして、ほんの少しずつだが、市内の糸屋さんから注文が来始めた。

間もなく、パールヨットから注文が来た。綿糸を黒に染めてみろという。採用されれば、相手は伸び盛りの刺繍糸メーカーである。暮らしぶりは一転するに違いない。

黒に染めた。突き返された。

「濃度が足りない」

また染めた。また戻ってきた。3度、4度……。

10回突き返されて、あれほど膨らんでいたやる気が急速にしぼんだ。

「これ以上何をやれっていうんだ、ってね。それで妻とも話して、俺たち、食うにも困ってるけど、今度駄目だったら諦めよう、ってことにしたんです」

11回目の試作品。最後の試作品だった。数日後、パールヨットから知らせが来た。

「おい、あれでいいんだってさ。合格したよ、合格だ!」

その日、堀さん一家に喜びと安堵が爆発した。以来ホリスレンは、パールヨットと二人三脚で発展した。

化学を極める ホリスレンの2

【色との闘い】
ホリスレンは30種類ほどのスレン染料を常備する。この30色から、刺繍糸メーカーのパールヨットの色見本に従い、実に700種類近い色を出す。
無論、それぞれの色を出すための染料の配合割合は数値化している。その通りに混ぜ合わせ、湯に入れて還元剤を加え、染料を溶かす。

染色用のタンクは中心に染料の吹き出し口があり、タンクに入れた15㎏から50㎏の糸に染料溶液を吹き付ける。スイッチを入れればタンクの下に落ちた溶液は循環して再び吹き出し口から飛び出していく。

それだけの事である。一見、素人の筆者にも出来そうな作業工程ではないか?

「ところが、それだけだと色がぶれるんです」

染料の配合はマニュアル通りにやった。だから間違いはないはずなのだが、同じ染料メーカーの染料でも、ロットによって微妙に成分比率が狂うらしく、染め上がりが色見本からずれた色になる。いってみれば、新しく染料を購入する度に実験し、配合割合を書き直さなければならない。大変な手間である。

 

それだけではない。途中まで使った缶に入っている染料を、最適と分かっている配合割合で使っても、

「毎回うまく行くとは限りません」

染料を溶かし込んだ湯の温度、湯と染料の割合、染める時間、その日の外気温、加えた還元剤の微妙な量の違い、タンクへの糸の入れ方……、スレン染料は実に敏感に「違い」を嗅ぎ分けて違った表情を現す神経質な染料なのである。

「ある程度までは数値化出来るし、やって来たんですが、最後は勘頼りですね。今日はこれで行く、って決めてやるんです」

35年間で勘は随分鋭くなったと思う。だが、逆説的にいえば、データの裏付けがない勘ほど当てにならないものはないこともこの間に学んだ事だ。