その4  苦し紛れ

何事でも後講釈は簡単である。成功した今になって考えれば、

「どうしてもっと早く気がつかなかったのか」

といいたくなるほどの当たり前の発想である。だが、アイデアとは無から生まれるものではない。雑多なままに頭の中で漂い続ける様々な知識のいくつかがある時、何かの刺激で突然結びついてスパークを放ち、誕生するものだ。

松井ニット技研の取引先は、ずっと問屋やアパレルメーカーだけだった。問屋やアパレルメーカーから注文をもらうのが営業のすべてで、いわれたまま、注文の仕様通りにマフラーを作り上げ、発送するのが仕事のすべてだった。

問屋やアパレルメーカーの先には販売店があり、販売店がお客様に売っていることは、知識としてはあったが実感を伴わなかった。だから、いま消費者の好みはどんな変化をしており、次のシーズンはどう変わるのかなどは問屋やアパレルメーカーが探ればいいことで、松井ニット技研には関係なかったのである。

2人は初めて、自分たちの居場所をずっと消費者に近づけ、消費者の声を聞きながら自分たちの市場を作っていく道を切り拓いていこうというのだ。
それに、賭ける。

とはいえ、この試みにはリスクが伴う。悪くすると、問屋やアパレルメーカーが自分たちの縄張りを荒らされたと受け止め、怒って敵に回り、妨害に出る恐れがある。取引を打ちきられる恐れだってある。

確かに、問屋やアパレルメーカーからの注文は減る一方だった。だが、その時点で松井ニット技研が抱えていた注文は、A近代美術館を除けば、全てが問屋、アパレルメーカーからであることも事実だった。彼らを敵に回してしまえば、納品先はA近代美術館だけになりかねない。そうなれば、悪くすれば倒産に追い込まれることだってありうる……。

普通なら、この道に踏み出すことを思いついても、迷う。迷った挙げ句、将来の可能性よりもいまの安定性に戻ってしまう経営者も多いだろう。

だが、2人は迷わなかった。

「といわれても、当時の私たちにはそれしかなかったですから。いってみれば、あれは苦し紛れの選択で、迷うゆとりすらなかったんですよ」

こうして進むべき道が決まった。そして、ニューヨークのA近代美術館に納めるマフラーへのデザイン提案も始めていた松井ニット技研は、すでに自前のデザインも手がけ始めていた。考えてみれば、これは自分たちのデザイン力が消費者に受け入れられるかどうかを試すことでもある。
決めてしまえば、あとは計画を練って実行に移す。

智司社長は

「これで絶対大丈夫だ」

と思った。

敏夫専務は

「本当に大丈夫なんだろうか」

とおっかなびっくりだった。松井ニット技研を経営する2人の性格はそれほど違う。しかし、ほかに道はないという思いだけは2人の共有物だった。

その5 美術館

とりあえずの営業方針が固まった。攻めるのはニッチマーケットである。そして松井ニット技研には、1つだけ、すでに知っているニッチマーケットがあった。

美術品を愛する人々

である。
美術館までわざわざ足を運び、入場料を払って選りすぐりの絵画や彫刻などと空間、時間を共にしながら鑑賞する。そんな豊かな時間を愛する人々は国内にも数多い。海外の巨匠の作品が展示される企画展には長蛇の列が出来る。松井ニット技研が創り出すマフラーはそんな美術愛好家の人々に目を止めていただけるのではないか? ニューヨークのA近代美術館で大好評を得ているのはその証ではないか?

そこまで考えると、次の手は自ずから生まれた。

「国内の美術館を総当たりしてみようじゃないか」

2人の考えは完全に一致した。方向が決まれば一刻も早く行動に移したほうがいい。営業を担う敏夫専務はそう思い立って外に飛び出すと、歩いて10分ほどのシロキヤ書店に駆けつけた。書棚から分厚い全国美術館ガイドを抜き出す。レジで代金を支払う。重い本を抱えて戻り、時間を惜しむようにページをめくり始めた指に、何故か力が入る。

「日本って狭い国だと思っていたけど、美術館ってたくさんあるんだなあ」

数えてみると600以上もあった。国民20万人に1館。その数に圧倒されかけた。全国の、こんなにたくさんの美術館を1人で営業することができるか?
だが、考えようによっては、こんなにたくさん、松井ニット技研のマフラーを売ってくれる可能性がある潜在的販売店があることでもある。このうち1割でも60館。60館もの美術館が松井ニット技研のマフラーが置いてくれたら、年間の売り上げは……。
進む。決めたのだから進むしかない。

まず北から始めることにした。北海道から順番に南に下る。最初は

北海道立近代美術館

だった。ここが最初の営業先である。

事前に電話でアポイントを取り、飛行機や電車、バスを乗り継いで行って担当者と顔を合わせ、商品カタログを広げながら丁寧に商品の説明をするのは営業の基本中の基本である。ところが、当時の松井ニット技研にはそんな営業経費が捻出できなかった。現地に出向く足代すらままならない。国内景気の落ち込み、生産地の海外移転の影響で経営はそこまで追い込まれていたのである。ない袖は、どう足掻いてみても振ることは出来ない。

敏夫専務は事務室にある電話の受話器を取り上げた。仕方ない、電話で営業してみよう。

「群馬県桐生市の松井ニット技研と申します。マフラーを製作しております。ご提案があってお電話しました。私どものマフラーは1999年からニューヨークのA近代美術館で販売されており、2001年からは毎年、売り上げトップの実績を上げております」

その6  スタートダッシュ

開口一番の挨拶である。多くの美術館に電話営業をするうちに、これは敏夫専務の定例フレーズになっていく。まず松井ニット技研を知ってもらわなければならない。それにはA近代美術館での実績を挙げるのが一番手っ取り早い。何しろ、松井ニット技研はOEMメーカーである。メーカー名を冠した製品はない。取引先を除けば誰も知るはずがなく、ブランド力は0。だが、A近代美術館は世界に鳴り響くビッグ・ブランドだ。

実は、営業の手段として「A近代美術館」の名前を使うのは、取引を始めるときに美術館と交わした契約に違反する行為である。のちに敏夫専務は、この件でA近代美術館の叱責を受けることになるのだが、この時の敏夫専務の頭には契約書の「け」の字も存在しなかった。英語で書かれた長文の契約書に目を通した記憶もなかった。

「A近代美術館にマフラーを納めることが出来ることに舞い上がって、契約書なんてろくろく見なかったから記憶しているたわけがないんです。それに、あの電話をかけた時の私は、とにかく会社を潰しちゃいけない、。何とか営業を成功させないと、と必死でしたから、契約書の中身を記憶していても突っ走ったかも知れませんけどね」

話を道立近代美術館に戻す。
敏夫専務は言葉を継いだ。

「当社はずっとA近代美術館一本でやってきました。でも、あまりにも売れるものですから、ひょっとしたら日本国内の美術館でも来館されたお客様に買っていただく商品をお探しになっているのではないかと思いつきました。遅ればせかも知れませんが、よろしかったら資料をお送りさせていただきます。ご検討願えませんでしょうか」

営業の世界では、100件当たって12、3件から引き合いがあり、うち3件がまとまれば上首尾だといわれる。営業を続けてきた敏夫専務は、だから大きな期待は持たずにかけた電話だった。幕開けの道立近代美術館がうまくいかなくても全国には600を超す美術館があるのだ。営業をコツコツ積み重ねれば、いつかは関心を持ってくれるところが現れるだろう。

ところが、A近代美術館の話を出した瞬間に、相手の反応が変わった。

「えっ、A近代美術館でそんなに凄いことが起きているんですか。しかも、日本の製品で! それは素晴らしい。是非検討させてください。はい、資料が届くのをお待ちしています」

1件目としてはこれ以上ないほどの反応だ。気をよくした敏夫専務は次の相手に電話をかけた。北海道立函館美術館だったと記憶にある。

「なるほど。そんなに美しいマフラーだったら、うちの来館客にも評価していただけるかも知れませんね。是非資料を見させてください」

幸先がいい、では言葉が足りない。釣りに例えれば入れ食い状態だった。敏夫専務は勢いづいた。

写真:北海道立近代美術館です。同美術館のご厚意で使用を認めていただきました。

その7  手作り

電話営業はのっけから大成功だった。いくつもの美術館が、是非資料を見せてくれ、という。

だが、これまでOEM(相手先ブランドでの生産)メーカーでしかなかった松井ニット技研に、販売店や消費者に見てもらえる商品パンフレットなどあるはずがない。
電話では

「資料をお送りしましょうか」

といったが、その資料は、実はどこにも存在しなかった。こんなに早く反応が返ってくるとは考えもしなかったから、資料をつくる準備さえしていない。

なければ、作らねばならない。しかし、北海道への出張費すら捻出できない会社である。見栄えのいいパンフレットを作る資金など逆立ちしたって出てくるはずがない。思わず口にした営業トーク、

「よろしかったら資料をお送りさせていただきます」

で敏夫専務は身動きが取れなくなってしまった。

「どうしよう?」

しばらく考え込んだ敏夫専務はデジカメを取り出した。これでマフラーの写真を撮ろうというのである。カメラは「バカチョン」と呼ばれる普及品。それに写真の撮り方なんて勉強したことはないズブの素人である。それでもできるだけ美しく写るようにマフラーの巻き方、置き方を工夫し、背景にマフラーと色の取り合わせがいい色紙を敷き、光の具合がいい場所を探してデジカメのシャッターを押し続けた。

撮った写真は手元のプリンターでプリントし、A3の紙に貼り付けた。貼り付け終わると、写真の横に手書きで説明を書き込んだ。

「出来た!」

敏夫専務はその紙を手にすると、近くのコンビニに足を向けた。カラーコピーするためである。

少しパソコンに詳しければ、パソコンで写真と文章が編集できるのは常識である。だが、敏夫専務にはその知識がなかった。知らない以上、大量に資料を作るにはコピーするしかない。コンビニに走ったのは,会社にはモノクロのコピー機しかなかったからである。

「資料を作らなきゃ、って考えた時に、それしか思いつかなかったんですよね。でも、カラーコピーって、驚くほど高いんですね。どうしてあんなに高いんですか?」

一緒に、A近代美術館のカタログも、松井ニット製のマフラーが載っているページをカラーコピーした。あとは松井ニットのマフラーを記事にしてくれた新聞のコピー。これが、敏夫専務が用意した「資料」の全てである。

こうして10ページほどの資料が出来上がった。電話でのいい反応が戻ってきた美術館に次々に送ったのはいうまでもない。

「そうですねえ。第1弾として資料を送った美術館は5、60館もあったでしょうか」

その8  大原美術館

開拓営業には、金と時間と人手がかかる。最先端の技術が生み出した画期的な、競争相手がいない新製品でも、それなりのものを投入して手間暇をかけなければ市場はなかなか門戸を開いてくれない。それがいまの常識だろう。

一方、松井ニット技研が売ろうとしているのはマフラーである。すでに世の中にはマフラーの市場が確立し、溢れるほどの製品がひしめき合っている。その既存の市場に新しく参入して一定の位置を占めるには、相当な力業がいると考えるのも常識だろう。

素人が撮った、決して巧いとはいえない写真とフェルトペンを使った手書きの文字で急造した原本を、コンビニでカラーコピーした「資料」だけでその市場への参入を図る。無手勝流とまではいうまい。しかし、敏夫専務が始めたのは愛馬ロシナンテにうちまたがって風車に挑みかかったドン・キホーテにも似た、一昔、いや、二昔も三昔も前の開拓営業であるとはいえる。

ところが、世の中は不思議なものである。

多くの美術館が即座に門戸を開いてくれたのである。

「当館はとりあえず10本お願いします」

「うちは30本から始めます。出来るだけ早く送ってください」

次々に注文が舞い込み始めた。
10本? 30本?

「たったそれだけ?」

と、意外の感に囚われる方もいらっしゃるかも知れない。確かに、ある見方をすれば、たったそれだけ、である。だが、ゼロから出発したのだ。0が10、30になるということは、増加率は数学的には無限大である。

松井ニット技研は、こうして新しいニッチマーケットの扉を押し開いたのだった。

それから1、2年後のことである。智司社長が編み物組合の旅行で岡山に行った。

「そういえば、倉敷市の大原美術館にはまだ声をかけてないんだったな」

そう思いついた智司社長は、出がけにマフラーの見本と営業資料を鞄に詰め込んだ。岡山に着くと、

「申し訳ありませんが、ちょっと寄りたいところがあるので」

と同行者たち断り、一人で大原美術館に寄った。

「そうしたら、どうしてもっと早く声をかけてくれなかったのか、とお小言をいただきまして」

こうして取引が始まった大原美術館はいまでも、松井ニットのお得意先の一つである。そしてこの頃には、このあとで詳しく触れるが、松井ニットが生産するマフラーの25〜30%が、自社ブランド「KNITTING INN」になっていた。問屋などの中間業者を省いて美術館と直接取引するので中間マージンがなくなり、利益率は膨らむ。OEMの注文は相変わらず減り続けたが、松井ニットは黒字転換を果たしていた。

写真:大原美術館