桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第6回 大久保長安を知らねば

桐生新町の地図上でお稲荷さんが描く斜めの線は何のためにあるのか? 桐生新町誕生の姿のおおむねは解き明かすことができたとはいえ、何とも説明できない謎が残ったのである。どこにもはまりそうにないジグソーパズルのピースは何とも腹立たしい。
森村さんはしばらくああでもない、こうでもないと「謎」と向き合った。が、一歩も進むことができない。では、とりあえずここで桐生の歴史調査を終了するか?
だが、森村さんの歴史探訪魂は真っ赤に燃えさかっていた。簡単には消えそうにない。

「だったら。これまでに解明されている桐生新町の町立ての歴史を勉強してみよう」

と森村さんは思い立った。ひょっとしたら、どこかに謎の斜めの線につながるヒントが見いだせるのではないか?

最初に手にしたのは桐生市史である。桐生市中央図書館でページをめくった。何度も「大久保長安」という名に出会った。初めて見る名前である。桐生新町の成立の項には

「当町は当代の初頭、天正19年より慶長の初年に互り、徳川氏の代官大久保石見守長安の手代大野八右衛門尊吉が、旧桐生領4箇村の親郷触元として桐生川の渓口聚落地である久方村・荒戸村の一部を割いて都市計畫的に新設した農村都市である」

と書かれている。そうか、桐生の中心となった桐生新町を作ったのは大久保長安という人だったのか。そうであれば、大久保長安は桐生の大恩人である。森村さんは大久保長安に強い関心をもった。

ところが、桐生市史を読み進めるうちに、ムカムカしてきた。こんな記述にぶつかったからだ。

「つぎに代官大久保石見守について記する。大久保長安は甲斐の人猿楽師金春七郎喜然の子で、初姓は大蔵、通称を藤十郎といい、武田信玄に仕えて大谷性を冒(おか)したが、武田氏滅亡の後、駿河におもむき、さらに徳川家康に仕えて大蔵太夫といい、猿楽を業としていた。後金山奉行に任ぜられ、功績を挙げるにおよんで、家康より大久保性をたまわり十兵衛と称した。慶長年中従五位に叙し,石見守に任じ武蔵国八王子の地をたまわり、禄高2万石の領主となった。その才能と技術は多面で、鉱山採掘のほか検地・築城・訟獄(しょうごく=訴訟)までその手腕を発揮した。しかし晩年キリシタンのことに関して罪を得て慶長18年4月69歳で没した。遺言して屍を金棺におさめ、甲州に葬られんと幕府に乞うたが許されなかった」

桐生の大恩人が「罪を得て」だと?
森村さんは大久保長安について書いた本を読みあさり、事実関係を調べ始めた。

大久保長安が死んだのは慶長18年(1613年)4月25日である。世に言う「大久保長安事件」が起きたのはその直後、翌5月6日ことだった。何がきっかけだったかは分からないが徳川家康が長安配下の勘定(勘定奉行配下の役人)、手代(代官の下役として農政を担当した役人)を呼び出して調査を始めた。そして長安の不正行為が見つかったというのだ。
すでに長安は亡くなっていたが、これをきっかけに調査は全国におよんで徹底された。その結果、この年7月には長安の財産が没収され、子供7人が切腹を命じられた。そして長安の遺体が掘り出され、安倍川の河原で張り付けにされた。こうして大久保家は断絶した。

「そんなバカな! 桐生の恩人が亡骸を掘り起こされて張り付けにされるような極悪人だって!?」

森村さんは憤った。

「あまりにも性急な断罪だ。この事件には裏があるはずだ! 桐生の恩人・長安の汚名を晴らしたい!」

写真:森村さんが読みあさった大久保長安関連の資料のほんの一部

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第5回 現れた斜めの線

桐生新町に残るお稲荷さんを訪ね歩いた森村さんは、それまで誰も考えたこともなかった桐生新町が生まれ落ちた時の姿を描き出した。

お稲荷さんは、45間、150間の間隔で規則正しく並べられており、それは約400年前の町立ての際の縄入れの目印だった。

それが、森村さんが得た成果だった。

普通なら、それで森村さんの桐生の歴史研究は一段落し、次の目標に向かって新しい研究が始まる。ところが、森村さんはお稲荷さんから離れることができなかった。森村さんが見出したお稲荷さんの並べ方の法則に従わない18のお稲荷さんがあったからである。

どれも、立派な祠をもつお稲荷さんだった。地図に記入したこれらのお稲荷さんの位置を目で追うと、本町通の北の端にある桐生天満宮から南南東に向って一列に並んでいるように見える。町立ての外郭をあらわしたお稲荷さんが作る南北の線を基準にすると、斜めの線である。その反対の先にあるのは桐生市仲町3丁目の常祇稲荷神社だった。
念のために定規を当ててみた。お稲荷さんはきれいに一直線上に並んでいた。

「この斜めの線はいったい何なのだ?」

900間×100間の桐生新町を町立てする縄入れには、どう見ても不必要な線である。しかも家の敷地内にあるから、どう考えても町立てと同時に置かれたとしか考えられない。町立てをした大野八右衛門以下の人々は、いったい何のためにお稲荷さんを斜めの線に沿ってに並べたのだろう?

森村さんの生家は本町6丁目である。常祇稲荷神社の境内は友だちと走り回る広場だった。だからだろう、近所のお年寄りたちは常祇稲荷神社に伝わる話をよく聞かせてくれた。

「桐生のお稲荷さんは、みんな常祇稲荷から分かれたんだよ」

「桐生天満宮の神様と常祇稲荷の神様は行き来されるんだ。2つの神社は御神渡(おみわた)りの道でつながっているんだ」

それが地元に伝わる話である。だとすれば、新しく姿を現した斜めの線にあたるものがあるとすれば、その御神渡りの道だろう。まっすぐ2つの神社を繋いでいるから,とりあえずの説明にはなる。

「だがなあ」

森村さんはどうしても納得できなかった。
八百万(やおよろず)の神が年に1度出雲に集まるという話は聞いたことがある。旧暦10月を神無月というのは、全国の神様たちが地元を留守にして出雲に出張するからだ。だから神様たちが集まる出雲では旧暦10月を神在月という。
だが、神様は地元で他の神様と交流するのか?

桐生天満宮は学問の神様といわれる菅原道真公と、道真公の先祖である天穂日命(アメノホヒノミコト)、それに祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ=お祓いを専門とする4柱の神々)を祀っている。そんな神様が、もともとは農耕の神であるお稲荷さんとどうして行き来しなければならないんだ? それはないんじゃないか? だったら、この斜めの線は何なのだろう?

いくら考えてもわからない。桐生のお稲荷さんが400年間持ち続けた秘密を解き明かしたのは森村さんだから、他の人にこの斜めの線を聞いても知る人がいるはずはない。お稲荷さんに注目した人がいなかったのだから、お稲荷さんの並び方の意味を書いた文献もないのだろう。では、どうすれば斜めの線の秘密を解き明かせるのだろう?
わからない。わからなければ、当面は放っておくしかない。

森村さんはアマチュア史家である。学者や専門家のように系統立てて歴史を解明していく作業は苦手だ。その時そのときにたまたま関心を惹かれたテーマを追求するのが森村スタイルである。
ただ、森村さんの関心は常に桐生新町の誕生に向けられ続けた。

写真:青い線が、現れた斜めの線

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第4回 お稲荷さんは町立ての目印だった!

お稲荷さん信仰の歴史を調べてみた。お稲荷さんとはもともと穀物の神である。毎年の豊作を願う穀物の神が、なぜ荒れ地に縄入れした桐生新町の町立ての目印になるのか?
インターネットで調べていたら、しめ縄メーカーである折橋商店(富山県射水市)のHPにこんな記述があった。

「江戸時代になると、稲荷信仰が庶民に広まります。当時は、さまざまな地方からの武士が江戸に集まり、新たに開発された宅地に住みはじめた時期でした。その際に土地の神として稲荷神を祀り、それが屋敷神となり、大名や旗本から商人へと広まっていきます」

お稲荷さんはいつしか土地につく神としての性格も併せ持つようになったようである。そんな信仰が産声を上げた時期に、桐生新町の町立てが行われた。いってみれば、当時最新の流行に乗って、桐生新町ではお稲荷さんが境界杭の代わりを務めてもおかしくはない。

「それに」

と森村さんは言葉を継いだ。

「桐生新町町立ての責任者だった大久保長安は、代官頭として八王子に築いた陣屋に産千代稲荷神社を創建し、いまに受け継がれています。であれば、大久保長安がお稲荷さんに助けてもらおうと思っても自然ではないですか」

桐生の町立てはどのように進められたのか。それまで誰も触れようとしなかった桐生の産まれ方に、森村さんはお稲荷さんを捜し歩くことで一条の光を投げかけたのである。

森村さんは人に勧められて、お稲荷さんの調査結果をレポートにまとめた。「桐生新町の母子手帳」と名付けた。その一部をピックアップして、森村さんの調査の進め方を見よう。

私がこの研究を始めたのは、平成16年(2004年)の頃からです。
きっかけは、(本町)2丁目の玉上薬局のご主人との世間話の最中に、やけにこの辺りにはお稲荷さんが多いんですよ。何故だか調べてみませんか、の一言でした。誰も研究していないお稲荷さん、こいつは暇つぶしには最適とお受けした次第です。今にして思えばラッキーな出会いでした。
誰も研究していないということは、文献調査などでは解決できないわけで、1人で始めろということです。
先ずはお稲荷さんがどこにあるのか、所在地の調査に取り掛かりました。住宅地図を片手に、一軒一軒くまなく巡り、お稲荷さんを発見すればマーカーを地図に置き、1丁目から6丁目まで2ヶ月間調査しました。
これらの調査から

①伝承が明確な家運隆盛を願うお稲荷さん
②伝来不明・意味不明のお稲荷さん

の2種のお稲荷さんが出て来ました。

①のお稲荷さんの方は家運隆盛を願うお稲荷さんとして、先祖が祭ったということで解決しました。
問題は②のお稲荷さんです。②の古い稲荷をさらに調べると、

②—1 桐生新町の輪郭線に沿って存在するお稲荷
②—2 地割りの内側に点在するお稲荷

以上の2種類が見られます。さらに法則性が見えます。何らかの意図を見て取ることができます。

これらのお稲荷さんはいつ頃設置されたのでしょうか。それを示す資料などどこにも存在していません。所有者の方に聞いても古くからここにあるとしか答えてくれません。そこでこのように考察しました。

直線状に稲荷を配置されているということは何者かの指示が存在した。
家が建て込めば直線状に配置することは困難である。

以上のことから、これらの稲荷は、新町を作成したと同時期にまだ家が建つ前に、何者かが何らかの理由で設置したと考えました。

②—1を整理するために、新たに別の地図上に稲荷を移動しておりましたら、複数の稲荷は桐生新町の外郭に沿って等間隔に置かれていることに気が付きました。間隔は82m 即ち45間です。あたかも目印のように稲荷を置いてあるようです。この見解が正しければ、桐生新町の長さは,45間の倍数上に創られたということになります。

実は、②—1を整理するために別の地図に稲荷を移動していた時、各町内の区切りの所に立派なお稲荷様が置かれていることに気が付きました。その位置は373mごとです。150間ということになります。ですから、150×6=900となります。人々の暮らしの基準、行政区画は、6町内は等分に創られた町のようです。しかし6丁目だけは寺があるため、特別に大きく区画されその分を5丁目と4丁目が割を食う形になっているようです。

以上のことから、

桐生新町の大きさは、長さ900間、幅100間、面積9万坪
桐生新町の行政区画として150間×6町内
東京ドーム(1万4000坪)の約7個分

です。
これが桐生新町の母子手帳の1ページ目に記載された記述です。

森村さんは、森村史学の第1歩を記した。

写真:森村さんは地図に、お稲荷さんの場所を記た。見にくいかも知れないが、黄色のマーカーがお稲荷さんの場所である。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第3回 お稲荷さん探索

森村さんは歩いた。徹底した現地調査である。家にあった分厚い住宅地図を抱え、カメラを片手にお稲荷さんを探して現在の本町1丁目から6丁目、そして横山町、つまり旧桐生新町を1軒1軒、歩きに歩いた。

「お宅にお稲荷さんはありませんか? それは家のどの辺りにありますか? いつ頃からあるのでしょう? できれば写真を撮らせていただけませんか?」

2004年春のことである。

お稲荷さんが見つかる。祠が堂々と鎮座しているものもあった。家と家に挟まれて余程注意しないと見のがしかねないものもあった。見つけるたびにひとつずつ、持ち歩いている住宅地図にその位置を書き込んだ。

現地調査が一段落すると、桐生新町を中心とした大きな桐生市の地図にお稲荷さんの場所を書き移した。

「おや?」

その地図を見ていた森村さんは不思議なことに気が付いた。
調べ上げたお稲荷さんにはいくつかの階層があるらしい。古くからあって後にその場所に住むようになった人が祟りを恐れてそのままにしておいたものと、明治以降に商売繁盛を願って新しく分霊して祭っているものである。だから、1つの敷地に2つのお稲荷さんが同居することが起きたらしい。

勝手に前者をオールド稲荷」、後者を「ヤング稲荷」と名付けた。土台に赤城山の小松石が使われた稲荷、敷地の中に堂々と鎮座している稲荷、その家の人が

 「古い祠でしたが、最近直しました」

という稲荷が「オールド稲荷」である。
森村さんが着目したのは、「オールド稲荷」だった。

「このお稲荷さんたち、規則的に並べられているんじゃないか?」

その「オールド稲荷」たちはは、どうやら約400年前に町立てされた桐生新町の外郭に沿って並んでいたのだ。

間もなく森村さんは、もっと大変なことに気が付く。

「このお稲荷さんたち、一定の間隔で並べられていないか?」

コンパスを取り出した。「間隔」を発見するためである。「オールド稲荷」同士の間隔は約82m。尺貫法に直せば45間である。「オールド稲荷」は、南北に走る本町通から45間離れて、南北に一直線に、それも45間間隔で置かれているようなのだ。

町立てされるまではこの一帯は荒れ地である。人がほとんど寄りつかない荒れ地にお稲荷さんを規則正しく並べるはずはないだろう。だが、町立てが終わって家が建ち並んだ後でお稲荷さんを規則的に並べるのも難しい。だとすれば,「オールド稲荷」が並べられたのは町立てと同時だということになる。であれば

「これは桐生新町の町立てで縄入れする際の目印として置かれたのではないか?」

だが、発見したかも知れない法則に従えばお稲荷さんがあるはずの場所にお稲荷さんがないこともあった。
おかしい。私が発見したと思っている法則は単なる勘違いか?

「いや、町立てからいままでの間、桐生新町では何度も大火があったと聞く。火事で燃えて再建されなかったり、火事のあとで家屋を再建する際に、邪魔になって場所を移されたりしたお稲荷さんもあるのではないか?」

そう思いつくと、自分が見出したと思う法則に従えばお稲荷さんがあるはずの場所の近くの人たちに、

「このあたりに昔はお稲荷さんがあったはずだと思うのですが、何かご先祖から話を聞いていらっしゃいませんか?」

と聞き回った。

「はい、うちでは店を建て直した時に、道沿いにあったお稲荷さんをちょっと引っ込めましてね。あれはいつだったかな……」

という人がいた。そのお稲荷さんは狭い路地を入ったところに移されていた。住宅地図には元あった場所を書き込んだ。

「ああ、確かに、あなたが言うようにここにはお稲荷さんがあったという言い伝えがあります。ずいぶん昔の火事で燃えて、そのままになっているらしいですよ」

その、あったはずのお稲荷さんも地図に書き込んだ。こうして集めた「オールド稲荷」は約60にも上った。

45間ごとに置かれたお稲荷さんとは別のお稲荷さんにも気が付いた。本町通から45間離れた南北の線上に、45間の法則に従わないお稲荷さんもあったのである。祠や鳥居を供えた立派なお稲荷さんで、桐生天満宮から150間(273m)間隔で据えられている。

「この150間ごとの立派なお稲荷さんは各町の境界を示しているんですよ。つまり本町1丁目から6丁目までの各町内は南北150間、東西は100間という法則に従って町立てされたのです」

桐生新町が生まれた時の姿がはっきりと浮き出てきた。

だが、まだ疑問は残る。森村説が核心をついているのなら、桐生新町の町立てはお稲荷さんを並べて目印にして作業が進められたことになる。
しかし、町立てを進めるための目印なら、木の杭でも打っておけば済むはずだ。なぜお稲荷さんにその役割を任せたのだろう?

森村さんの歩みは止まらない。

写真:桐生市本町2丁目の有鄰館にあるお稲荷さん

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第2回 私、骨董屋になりました

森村さんは1950年2月の生まれである。父・義太郎さんは自動車部品を仲卸しする金井自動車部品を営んでいた。母方の祖父・山太郎さんは元小学校教師で、「露花」の俳号を持つ文化人だった。森村さんはおじいちゃん子で、骨董を愛でる山太郎さんの膝の上で一緒に骨董を見るのが好きだった。その影響だろう、小学生の頃から刀のつばを集め始め、みかん箱をいっぱいにした。中学生になると河原の石を集め始めた。教室で机の下に隠した石に見とれていて、先生に見つかったこともある。一風変わった子どもだった。

父の仕事は戦後の自動車ブームに乗り、暮らしは恵まれていた。大学を出た森村さんは家業に入った。しかし、仕事にはそれほど力が入らなかった。祖父・山太郎さんの血を受け継いだのだろう。骨董品に魅せられ続けたのである。給料が出ると、骨董屋に飛んでいく趣味人だった。

父・義太郎さんが2003年12月に身罷った。森村さんは長男である。父の初七日、霊前で誓った。

「私、がんばって家業を継ぎます」

さあ、もう趣味の骨董に現(うつつ)を抜かしている暇はない。2代目として家業を盛りたてなければならない。
だが、周りの目は違っていた。

「あんた、やっていけるんか?」

母・啓子さんと妻・悦子さんは口々にそういった。森村さんはお坊ちゃまの育ち。家業を手伝っていたとはいうものの、力が入っていたのは骨董品集めである。
加えて、自動車部品の仲卸という業態の環境が大きく変わり始めていた。客であった修理工場が部品メーカーとの直取引に乗り出していたのである。いわば、この世界でも流通革命が起きていた。そんな厳しい経営環境で、本当にあんたは会社をやっていけるのか?

「それでね、色々考えまして、父の四十九日に『やめよう!』って決めたんです。会社を閉じようって。もともと自動車はそれほど好きではないし、企業経営というのは私には向いていない、と決断しました」

閉じるといっても、突然廃業するわけにはいかない。3人いた従業員の再就職、取引先の問屋へのあいさつ、客だった修理工場が部品を調達できる道を開くこと……。やることはいくらでもあった。

「半年ぐらいは後始末に追われました」

さて、会社は閉じた。が、毎日ブラブラするわけにも行かない。身の振り方を考えなければならない。

「やっぱり、好きな事をした方がいいんだろうな、と考えました」

1年後、桐生市本町2丁目に美術・骨董品店を開いたのである。屋号を「同風軒」といった。趣味で集めてきた掛け軸、書画などの美術・骨董品と新たに仕入れた商品を並べた。ここの店主として暮らしを立てていくつもりだった。

ところがこの店主、とんでもない商売人だった。店頭に並べてある商品を売らないのである。個人の趣味で集めてきた品が客の目にとまり、

「これが欲しい」

といわれても、

「いや、それは……」

と理屈をこねて手放そうとしない。収集した美術・骨董品を売って収入を得ようと店を構えたはずなのに、いざとなるとひとつひとつの骨董品に惹かれて手に入れた時のことを思い出して手放せないのだ。

「それは、その……。それより、こちらはいかがですか」

と仕入れてきた美術品、骨董品を売りつけようとする。そんなだから、毎月の売上は目を覆いたくなるほどでしかない。そして、徐々に客が寄りつかなくなった。暇である。

そんな折りだった。

「ご主人、よほどお暇なようですね」

と店に入ってきた人がいた。すぐ近くの玉上薬局の店主、故・玉上常雄さんである。玉上薬局は文化文政期(1804〜30)に建てられた桐生市最古の建物で、11代当主の玉上常雄さんは郷土史家としても知られていた。

「聞くところによると、森村さん、あなたは歴史にも関心をお持ちのようですね。どうですか、桐生の歴史を少し調べてみませんか。どういうわけか、桐生にはお稲荷さんがやたらと多いんですよ。中には1軒の敷地に2つのお稲荷さんがある家もある。調べたら面白いと思うんですがね。腹ごなしにどうですか」

私が桐生の歴史を調べる? 考えたこともなかった誘いだった。確かに歴史も桐生も好きだが、素人の私に何かできるだろうか?

躊躇した。しかし、それから数日後、森村さんは「同風軒」の戸に鍵をかけて「外出中」の札を出し、鍵を閉めるとお稲荷さん探しに出始めた。

「どうせ客は来ないんだから、店を空けても同じことだと思いまして」

ユニークなアマチュア郷土史家、森村秀生が1歩を踏み出した。

写真:「同風軒」はこの看板を掲げていた