桐生新町の地図上でお稲荷さんが描く斜めの線は何のためにあるのか? 桐生新町誕生の姿のおおむねは解き明かすことができたとはいえ、何とも説明できない謎が残ったのである。どこにもはまりそうにないジグソーパズルのピースは何とも腹立たしい。
森村さんはしばらくああでもない、こうでもないと「謎」と向き合った。が、一歩も進むことができない。では、とりあえずここで桐生の歴史調査を終了するか?
だが、森村さんの歴史探訪魂は真っ赤に燃えさかっていた。簡単には消えそうにない。
「だったら。これまでに解明されている桐生新町の町立ての歴史を勉強してみよう」
と森村さんは思い立った。ひょっとしたら、どこかに謎の斜めの線につながるヒントが見いだせるのではないか?
最初に手にしたのは桐生市史である。桐生市中央図書館でページをめくった。何度も「大久保長安」という名に出会った。初めて見る名前である。桐生新町の成立の項には
「当町は当代の初頭、天正19年より慶長の初年に互り、徳川氏の代官大久保石見守長安の手代大野八右衛門尊吉が、旧桐生領4箇村の親郷触元として桐生川の渓口聚落地である久方村・荒戸村の一部を割いて都市計畫的に新設した農村都市である」
と書かれている。そうか、桐生の中心となった桐生新町を作ったのは大久保長安という人だったのか。そうであれば、大久保長安は桐生の大恩人である。森村さんは大久保長安に強い関心をもった。
ところが、桐生市史を読み進めるうちに、ムカムカしてきた。こんな記述にぶつかったからだ。
「つぎに代官大久保石見守について記する。大久保長安は甲斐の人猿楽師金春七郎喜然の子で、初姓は大蔵、通称を藤十郎といい、武田信玄に仕えて大谷性を冒(おか)したが、武田氏滅亡の後、駿河におもむき、さらに徳川家康に仕えて大蔵太夫といい、猿楽を業としていた。後金山奉行に任ぜられ、功績を挙げるにおよんで、家康より大久保性をたまわり十兵衛と称した。慶長年中従五位に叙し,石見守に任じ武蔵国八王子の地をたまわり、禄高2万石の領主となった。その才能と技術は多面で、鉱山採掘のほか検地・築城・訟獄(しょうごく=訴訟)までその手腕を発揮した。しかし晩年キリシタンのことに関して罪を得て慶長18年4月69歳で没した。遺言して屍を金棺におさめ、甲州に葬られんと幕府に乞うたが許されなかった」
桐生の大恩人が「罪を得て」だと?
森村さんは大久保長安について書いた本を読みあさり、事実関係を調べ始めた。
大久保長安が死んだのは慶長18年(1613年)4月25日である。世に言う「大久保長安事件」が起きたのはその直後、翌5月6日ことだった。何がきっかけだったかは分からないが徳川家康が長安配下の勘定(勘定奉行配下の役人)、手代(代官の下役として農政を担当した役人)を呼び出して調査を始めた。そして長安の不正行為が見つかったというのだ。
すでに長安は亡くなっていたが、これをきっかけに調査は全国におよんで徹底された。その結果、この年7月には長安の財産が没収され、子供7人が切腹を命じられた。そして長安の遺体が掘り出され、安倍川の河原で張り付けにされた。こうして大久保家は断絶した。
「そんなバカな! 桐生の恩人が亡骸を掘り起こされて張り付けにされるような極悪人だって!?」
森村さんは憤った。
「あまりにも性急な断罪だ。この事件には裏があるはずだ! 桐生の恩人・長安の汚名を晴らしたい!」
写真:森村さんが読みあさった大久保長安関連の資料のほんの一部