その5 桐生の着倒れ

話を少し戻す。

2歳から預けられた広沢のおばあちゃんの家も着道楽だったが、戻ってきた生家もまさるとも劣らぬ着道楽だった。

母は、普段着と外出着をきっちり区分けし、

「普段着は何でもいいけど、外に出るときはちゃんとしたものを身につけていないと気後れする」

が口癖で、身につけるものは何でも最高級のものを揃えた。

「何でもいい」普段着とはいえ、安物を使ったのではない。男性用は銘仙である。そして、外出着は最高の織物生地といわれるお召しで仕立ててあった。背広が必要になるとわざわざ東京・銀座まで出かけ、最高級の生地でオーダーした。

※お召し:強い撚りをかけて糊で固めた絹糸で織り上げ、あとで糊を洗い落とした生地。撚りが緩んで独特の凹凸が生地表面にできる。11代将軍徳川家斉が好んで「お召し」になったことからこの名がついたといわれる。

父の實さんの身体が弱ると、母のタケさんが外の仕事も取り仕切るようになった。取引先との打ち合わせなど仕事での外出も増えた。そんなときの母は、言葉通り、タンスから最高の着物取り出して身につけた。

「着飾った母を見ると、何だか嬉しくて仕方がなかったですね」

智司少年が最も好きだったのは、深緑の生地に、刷毛で描いたようなグレーがかった薄緑の大きな渦が全体にあしらわれた着物だった。その着物に身を包んだ母を見た日は、一日楽しかった。

「母が亡くなった後であの着物を探したんですが、どこに行ったか見つからないんです。どうしたんでしょうねえ」

生家に戻っても智司少年は相変わらず美しいものに取り囲まれていたのである。

加えて、当時の桐生は「着倒れ」といわれた。西の京都・西陣と並ぶ織物の産地として繁栄の極みにあったころだ。男も女も、町に出るときは競うように着飾った。競えるだけの経済力が桐生にはあったのである。

それに、当時の桐生には数百人の芸者がいた。機屋の旦那衆の夜ごとの接待や遊びは、それだけの芸者衆がいないことには成り立たなかった。松井家のすぐそばにも検番(けんばん)があり、夕暮れ時に外に出ると、着飾ってお座敷に向かう芸者さんと数多くすれ違った。

「夕日の中にパッと花が咲いたようで美しかったですねえ」

まだ形ができずに柔らかいままの智司少年の感性は、こんな桐生で育まれたのである。

「小さいときから美しいものをうんと見ないと、美しいものを生み出す感性は育たないんじゃないですかねえ」

いまの桐生は機屋も減り、経済力も衰えた。芸者衆は1人もいない。昔日の桐生は過ぎ去った夢のようなものだ。着飾る文化はお金が溢れるほどあってこそ絢爛豪華な花を咲かせるものだ。いまの桐生を「着倒れ」と表現する人は皆無に近くなった。

智司社長は、いい時代、いい場所で、心が一番可塑性に富んだ時代を過ごしたのではなかったか。

写真:母の形見の着物の横に立つ松井智司社長

その6 若鷹の爪

智司少年は終戦の前年、桐生市立東小学校に入学した。

あれだけのマフラーをデザインする人である。そして、繁栄を極めた桐生で和の美に取り囲まれて育ち、繊細な美感を育ててきた子どもでもある。才能の一端は幼い頃から迸り出て、

「これが子どもの絵か、と担任の教師を驚かす絵を次々と描く子どもだったに違いない」

と先回りして考える人がほとんどだろう。筆者も長い間、そう思っていた。

ところが。

「私、小学生の頃から絵がからきしダメでしてね。ほら、夏休みになると絵の宿題が出るじゃないですか。絵を描くのは下手で、だから嫌いで放っておくんです。すると、いつの間にか父が描いてくれている。それを提出すると、そりゃあ小学生の絵に大人の絵が混じっているわけですから、『いい絵だ』と展示されるわけです。それが恥ずかしくて。いまさら、『これは僕の絵ではありません』というわけにもいきませんしね。それもあって、夏休みが終わるのが大嫌いでした」

松井智司君の絵が、優れた絵として毎年教室を飾っていたのは私たちの予想の通りである。だが、違ったのは、実は本人が描いた絵ではなかったことだ。

能ある鷹は爪を隠す。だが、この頃の智司少年には隠すべき爪はまだなかった。爪がないから、見かねた親鷹が爪を貸していたわけだ。

だがいま、智司社長は鋭い爪を持つ鷹であることを私たちは知っている。遅れて生えてきたからより鋭い爪になったのかも知れない。あるいは、本人も気がつかないうちに、身体の奥深くで他に優れた爪を作る作業がゆっくりと進んでいたから外に出るのが遅れたのか。いずれにしても、いわゆる大器晩成形なのだろう。

その爪が表に現れるのはずっと先のことである。私たちは辛抱強く待たねばならない。

絵が嫌いな智司少年が好きだったのは音楽である。歌うのが得意で、

「はい、先生に指名されて教室の前に出て歌うのは、いつも私でした。それに、自分の耳で聞いて、私よりいい声だなあ、と思ったのは同学年に1人しかいませんでした」

それほどだから、歌の才能はあった。そして、才能の持ち主は褒められることでさらに才能を磨こうとする。

2年生に進級した智司少年は、学校の合唱団に入ったのである。そして放課後の練習には欠かさず参加した。

勉強は大嫌いで、だからしなかった。当然、成績は

「中の中ぐらい」

を続け、そのまま桐生市立東中学に進んだ。相変わらず、合唱クラブで喉を鍛えた。
そんな智司少年に、ほんの少しだけ変化が生まれる。

「何故か、美術の授業が好きになりまして」

いや、爪が生え始めたのではない。好きになったのは美術史である。教科書で見た「アルタミラの洞窟壁画」に、何故か強く惹かれたのだ。

「この躍動感を2万年前の人が描いたと知って,大きなショックを受けたんです」

次にギリシア建築に惹かれた。エンタシスの柱の優美さである。エジプトの絵画に惹きつけられた。ギリシャ彫刻の造形力、力強さに心を奪われた。
美術が好きだった父が集めた画集や美術雑誌を開き始めたのはこの頃のことだ。

そして、ノートを作り始めた。雑誌や新聞から、これぞと思った記事、写真を切り抜き、ファイルする。空いた場所に、授業で習ったことや思い浮かんだ文章を書き加えた。そのノートはいまでも大事にとってある。

「それまで、織物をはじめ日本の美にはゲップが出るほど触れていましたが、西洋の美は全く知らなかったんです。きっとそれでショックを受けたんですね」

だが、相変わらず絵を描くのは苦手だった。美術史との付き合いはあくまで片手間で、智司少年の情熱は相変わらず合唱に注ぎ込まれていた。

写真:小学校の修学旅行。後列右から6人目が松井智司社長。

その7 変化

もう少し、中学時代の智司少年を追いかけよう。暮らしに変化が訪れるからである。

いまは小学生から英語の授業が始まるが、当時は中学に入って初めて英語に触れた。教科書に並ぶabcに智司少年は戸惑った。全く理解できないのである。

小学校の頃は、勉強などしなくても何となく理解できた。算数も国語も社会も理科も暮らしの中に出てくるから、取り立てて勉強しなくても

「こんなことだろう」

と分かる。だから勉強はしないが、成績は「下」ではなく、「中の中」を保っていられた。

だが、英語となると話が違う。生家にもおばあちゃんの家にも町にも、英語は見当たらなかった。これは勉強しなければ理解が届かない。

「あのう、英語が分からないんだけど,塾に行かせてもらえませんか」

おずおずと母に申し出、塾に通い始めた。生まれて初めて

「勉強しなくちゃ」

と思ったのである。

「やってみたら、ちんぷんかんぷんだった英語が分かるんですよ。すっかり面白くなって英語が大好きになり、つられるようにほかの科目も勉強をするようになりました」

智司少年はそれまで、もっぱら「感性」を磨いてきたのだろう。この時の変化は「知性」も磨かねばならないと、智司少年が少し「大人」になったことの表れではなかったか。

成績に自信を持ち始めた智司少年は、いずれにしろ繊維の世界で生きていくことになるのだろうから、であれば京都繊維工業大学に進学したいと考え始めたのである。

第2の変化は家業に訪れた。

智司少年が小学校に入った頃、国が始めた無謀な戦争は徐々に敗色を濃くしていた。相次ぐ局地戦の敗北で船や飛行機が足りなくなり、材料に困った政府は鉄の供出を民間に強制した。織物など戦争にあまり関係がない業界が真っ先に狙われた。織機を取り上げられた「松井工場」は機屋を廃業せざるを得なくなり、「赤城発条」と社名を変えてスプリングを作り始めた。太田市にあった中島飛行機に納品する部品である。軍需産業に変身しなければ生き残れない時代だった。

小学校2年生で敗戦を迎えた。これでやっと機屋を再開できると胸を撫で降ろしたのもつかの間だった。その秋、父・實さんが倒れたのである。一家の大黒柱が病の床につき、工場の操業が止まった。母・タケさんは広沢町の実家の絹の靴下工場を見て松井工場で靴下を作り始めたがあまりうまくいかず、間もなく東京に本社があったトリコット工場に貸した。

そして昭和23年、實さんが肺炎で世を去る。松井家は火が消えたようになった。中学校を目前に、智司少年はくわえていた銀のさじを失っていた。

そして、3つ目の変化は思いもかけないところに現れた。智司少年のデザインが認められたのである。

中学の卒業アルバムのデザインが校内で公募された。公募といっても, 3年生は全員、アルバムのデザインを考えて提出せよ、というのだから、見方を変えれば強制である。

①金をかけないこと
②使いやすいこと

の2つが、課された条件だった。

絵が

「からきし下手」

を自認していた智司少年も出さざるを得ない。あれこれ考え、鶯色の表紙のアルバムを提案した。何と、それが採用されたのである。

「まさか、私のデザインが通るとはね。ほんと、予想もしていませんでした」

子どもの頃から美しさに取り囲まれて育ってきた美への感受性が初めて形になった、ともいえる。智司少年の爪が、皮膚を破ってほんの少しだけ外に出た瞬間だったのかも知れない。

それに、コストを抑え、使い勝手がよい、というのはいまの松井ニット技研のマフラーに通じる哲学でもある。

智司少年は、智司社長への道を半歩、いや100分の1歩かも知れないが、この時踏み出したのだと筆者は考える。

写真:松井智司少年デザインによる中学卒業アルバム。すっかり古ぼけてしまったが……。

その8 糸杉

昭和28年(1953年)、智司少年は桐生高校に進んだ。父・實さんはすでにない。東京の会社に貸していた工場の契約が終わったあと、母・タケさんは市内の機屋さんから中古のラッセル機を譲ってもらい、編み物工場を始めた。セーター地や安価なカーテン地を作って細々と家業を継いでいた。

タケさんは實さんに嫁ぐとき、

「我が家の身上(しんしょう)の半分はお前が稼ぎ出した。それをすっかり持たせてやるからな」

と両親にいわれたという。広沢町から途中にある渡良瀬川を渡し船で渡って桐生女子校に通いながら、それほど実家の仕事を手伝っていたのである。それだけに、夫を亡くして一家の大黒柱にならざるを得なくなったとき、

「自分ががんばらなければ」

と踏ん張ったのだろう。

智司少年が高校に入る頃、市内の職人さんにラッセル機の改造を頼んだ。パッとしないセーター地などに見切りをつけ、東京の問屋に勧められたマフラー生産に切り替えるためである。セーター地などを作るラッセル機は、そのままではマフラーの房を編むことができない。マフラーを作るとなると機械を改造し、房も編めるようにしなければならないのだ。

子どもの頃から工場が大好きだった智司少年は毎日のように工場に入り、職人さんの仕事を眺めた。職人さんの手でらラッセル機が生まれ変わる。まるで魔法を見ているようで夢中になり、改造法を脳裏に刻み込んだ。それがのちに、自分で編み機を改造し、いまの松井ニット技研のマフラーを生み出すことになるとは、当時の智司少年が知るはずもない。

ラジオドラマ「君の名は」が

「放送時間になると銭湯がガラガラになった」

といわれるほど大ヒットしたのはその頃のことだ。間もなく映画にもなり、「真知子巻き」と呼ばれる巻き方をしたマフラーが大ブームになった。マフラー専業となった松井工場は戦前の活気を取り戻した。

このころ智司少年は、大きな美術展が東京で開かれるたびに足を運ぶようになる。ミロのビーナスが来たと知っては出かけ、ゴッホ展と聞くと顔を出す。モナリサがやってきたルーブル展も見た。ちょっとした美術愛好家になったのである。

アルタミラの洞窟壁画の躍動感にショックを受けたのは中学生の時だった。以来、美術ノートは詳細にとった。しかし、美術展に行くことはなかった。

「中学以来、雑誌や美術全集で西洋の絵画を見るようにはなっていました。和の美しか知らなかった私が、美術の授業で西洋には全く違った美があることを知ったのは一種のカルチャーショックだったんですね。それが時間とともに私の中で発酵し始め、本物の西洋の美を見てみたいと思うようなったということでしょうか」

ある時は友人を誘って、ある時は一人で、東京に行った。

混み合う美術館で、まるでところてんのように押し出されながら見ただけだが、今になっても忘れられない1枚の絵がある。ゴッホの「糸杉」(冒頭の写真)である。

「燃え上がるような糸杉が空と山を背景にすっくと立っている。その絵の具の盛り上がり具合、選ばれた色、その重ね方など、いまでも鮮明に思い出せます」

和の美で育ってきた智司少年は、西洋の美を代表するゴッホの秀作を見ながら、

「たくさん見てきた丸帯にも、こんな色使いはあったな」

と、違和感より親しみを覚えた。そして何より、美しいと思った。持って生まれた才覚が、また新たな肥料を得て一回り大きく育った瞬間だった。

写真:ゴッホの「糸杉」

その9 京都工芸繊維大学

兄の隆さんは家業を継ぐことを嫌がり、すでに家を出て大阪の染料会社に就職していた。であれば次男の自分が「松井工場」を継がねばならない。そのためには、もっとたくさんのことを知らねばならない。中学の時は京都工芸繊維大学への進学を漠然と夢見ていたが、この頃には

「京都工芸繊維大学に行く」

という決意を固めていた。

ところが、入試が目前に迫った高校3年の秋、母・タケさんの体調が急におかしくなった。おそらく、自分ががんばらねばと積み重ねてきた無理がたたったのだろう。勝ち気な明治女である。朝は早くに起き、夜は遅くまで夜なべ仕事を続ける。子供たちに、自分が寝ている姿を見せたことがなかった。それが一気に吹き出したのに違いない。医者に診せても、なかなか快方に向かわない。それでも母は一家を守るため仕事から離れない。

「これは、大学に進むのは無理だな」

智司少年は一人決意する。自分がそばにいて母を支えなければならない。

兄は

「だったら地元の群馬大学工学部(現理工学部)にしろよ。あそこなら家から通えるじゃないか」

と進学先を変えるように勧めてくれた。群馬大学工学部は、桐生の旦那衆が繊維産業の各分野の専門家をたくさん育てようと大正4年(1915年)に作った「桐生高等染織学校」が始まりである。この当時も繊維に関係する教育・研究のレベルは高かった。「松井工場」に生かせる知識も豊富に得られるはずである。

しかし、智司少年の決意は変わらなかった。 俺は大学には行かない。

「だって、群馬大学工学部で学ぶのは『工学』なんです。私が行きたかったのは京都『工芸』繊維大学なんです。違いますよね?」

高校時代の智司社長

確かに、「工学」で学ぶのは、より良いものをより安価に作る産業技術であろう。だが、「工芸」はそれだけでは済まない。最高の機能に加え、誰もが欲しくなる美しいものを創り出す感性を育てる分野ではないか。

当時、「松井工場」が作っていたマフラーには、まだデザインの要素はない。白一色のウールの糸を粗く編み上げたマフラーで、他の会社が作っているものと違いはなかった。それが、智司少年が「継ぐ」と決めた家業だった。「工学」が生きる仕事ともいえる。

それでも、なぜか智司少年は「工芸」にこだわった。工芸品とは、実用と美術的な美しさを融合させたものをいう。将来自分がマフラーのデザインをするなどとは、当時の智司少年は考えもしなかったし、できるとも思わなかった。それなにのに、自分の中に根付いた「工芸」へのこだわりを捨てて「「工学」に飛び移ろうとは思わなかった。

様々なことが好き勝手に生起するのが人生である。しかし、三つ子の魂百まで、という。あとでよくよく眺めると、てんでんばらばらに見える中に、1本の筋が通っているのも人生なのではないか。

いや、少なくとも智司社長の人生には、本人が意識しないまま、1本の筋が通っていた。それがいまの智司社長に結実しているのである。

写真:高校の同級生と。中列左から2人目が松井智司さん。