その10 対米輸出

昭和31年(1956年)、智司少年は高校を卒業した。母の体調は一服していたが、すでに大学進学は断念している。

それでは、と家を離れて修行に出ることにした。桐生市内の機屋や買い継ぎ商に行く手もあったが、

「もっと広い世界を見たい」」

と、取引先に紹介された東京の問屋に就職した。その問屋は主に手袋をデパートに納品し、夏場は水着も扱っていた。

夏が来た。

「松井君、ここにある水着をデパートで売ってこい」

「いえ、無理です。私、泳げないんです。だから、水着なんて分かりません」

母・タケさんは水を嫌った。お兄さんが川で溺れ死んだいやな思い出のせいだった。そのためだろう、智司さんは海や川はおろか、プールにも入らせてもらえなかった。カナヅチである。

「何いってる、そんなのは関係ない! 売ってこい!!」

行き先は東京・渋谷のデパートである。売り場に着くと、売り子は中年の女性ばかり。そこに18歳になったばかりの智司青年が立った。

「結果は私の一人勝ちでした。あまりに売るものだから、周りのおばさんたちに妬まれてしまいまして」

18歳の初々しい青年が可愛らしかったから?

それもあるかも知れないが、智司社長の記憶を辿ると、客への説明の仕方が良かったらしい。

「ウールの水着は、使ったあとはあまり揉まずに洗って下さい。それでも、ウールは何度も使っているうちに縮んでしまうんですよねえ」

「こちらのナイロンの水着はお手入れはずっと楽です。縮むこともありません」

そんな、繊維の性質をきちんと説明する姿勢が信頼されたらしい。なにしろ実家は織物工場なのだ。それぞれの繊維の特徴、違いはすっかり頭に入っているのである。

妬む人もいれば目をかけてくれる人もいる。同じデパートに顔を出す他の会社の女性には可愛がられた。ずっと年上の人である。

「N響(NHK交響楽団)のチケットがあるの。行っといで」

「ほら、いま流行っている映画のチケットが手に入ったわ」

給料は安かったが、都会の刺激もあって東京の暮らしを楽しんだ。

「おい、そろそろ桐生に戻ってやってくれないか」

大阪の兄から電話を受けたのは、東京での仕事が間もなく2年になろうとする昭和33年(1958年)の春だった。小康状態だった母の具合が悪化したのだという。否も応もない。東京の仕事は母を助けて「松井工場」の経営をするための修行である。その年の6月、円満退社して桐生に戻り、家業に入った。

その頃、さすがに一世を風靡した「真知子巻き」のブームは去りかけていた。間もなく、代わるように登場したのが対米輸出である。とにかく売れた。東京に本社を置く輸出商社は桐生に支店を置き、桐生産のマフラーを買い占めるようにしてアメリカに送り出した。「松井工場」はてんやわんやと形容したくなるほどの忙しさだった。

もちろん、経営者としての仕事はした。工場で編み上がったマフラーはすべて点検し、自分の目で納得できるものでなければ出荷しなかった。シートのようになって編み上がったマフラーをはさみで裁断するのも智司青年の仕事の一つだった。

届けられた新しいサンプルを見た工場の職人が

「これはうちではできません」

いうと、どうすれば工場の編み機で編めるかを考え、鍛冶屋を呼んで機械を改造した。

やることはたくさんあった。しかし、どれもこれも、指示された通りの無地のマフラーを作るだけの仕事である。自分でデザインすることなんてない。

だが、絶好調の社業は智司青年を再び豊かにした。そこで生まれたゆとりが遊びを通じて、やがてデザイナーとなる智司青年の感性の幅を広げることになる。人生とは、実に無駄なく組み立てられているものだと思えてくる。

写真:「真知子巻き」とはこんな巻き方のことである。

その11 茶の湯

遊びもまんざら捨てたものではない。いや、遊びを知らない人間にいい仕事はできないといってもよい。

遊びをせんとや生れけむ

平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」に見える歌である。遊びは人が持って生まれた本能であり、人は遊びを通して様々なものを身につけていくのだ。

家業が順調なこともあり、智司青年は遊びにも夢中になった。とにかく、遊びに遊んだ。

智司青年が家業を継いだ昭和33年当時、桐生では芸事が盛んだった。松井工場も勢いが良かったが、織都桐生も往時の勢いを取り戻していたのである。

そんな空気の中で智司青年が身を入れたのは茶道だった。会社の業績も順調に右肩上がりだし、さて俺も何か芸事を、と考えていたとき、高校時代からの友人が

「俺、お茶を始めたんだ」

と話したのがきっかけだった。それを聞いて、

「だったら俺もやってみようか」

と思い立ち、早速、自宅のすぐ近くで茶道教室を開いていた先生に入門した。戦争で夫を亡くした女性が開いていた表千家の教室だった。

考えてみれば、智司青年は幼い頃から和の美に囲まれ、知らず知らずのうちに身体いっぱいに吸収してきた。親戚には料亭や旅館もあり、茶室も知らないわけではない。数ある芸事の中から茶道に目をつけたのは自然な選択だったのだろう。

最初に教室に入ったときのことだった。何気なく歩く智司青年を見て先生が問いかけた。

「あなた、子どもの時から何かやっていましたか?」

問われてみれば、小学生のころからから仕舞を習っていた。母に言われて妹と2人で通ったのである。仕舞とは衣装や面をつけずに能の一部を舞うことだ。

ご存じのように、能の動きはすり足が基本である。初めて茶道教室に行った智司青年は、意識もしないまますり足で歩いていた。それを先生が見た。実は、茶道でもすり足は基本である。畳の部屋を歩くとき、足を畳から離して歩いたのでは震動で埃が立つ。茶室には何人かの人が座っている。その人たちに埃を浴びせないようにすり足で動くのだ。

初回から褒められたからでもなかろうが、楽しかった。茶道も楽しかったし、加えて教室の仲間と遊ぶのも楽しかった。皆で春スキーに出かけ、雪の上で茶会を開いた。ござを持っていき、枯れ木を探して雪に突き立てて花に見立てた。湯はコッヘルで沸かす。雪上での野点である。

雪上での野点は、周りには奇異に映ったらしい。

「あなたたち、何か新しい宗教の信者さん?」

と問いかけられて皆で笑い転げた楽しい想い出もある。

それほど楽しかった茶道教室だが、2年ほど通ううちに疑問を感じ始めた。もっと知りたいと茶道の家元が著した本を読んだところ、教室での教えと食い違うことがいくつも目に着いたのだ。俺、ひょっとしたら間違ったことを学んでいるのか? せっかく学ぶのなら本物を学びたい。

写真:野点を楽しむ松井智司さん。

その12 小堀遠州

そう思い始めた頃、市内に新しい茶道の教場ができた。先生は表千家で、東京から通ってくるという。

友人に誘われて見学に行った。突然

「お手前をやってみて下さい」

と声がかかった。少なくとも2年間は茶道を学んだのである。その程度は身についている。教室で習った通りに進めた。すると、逐一注意を受けた。

「そうではありません。こうやるものです」

読んだ本の通りに直された。やっぱり、前の教室で学んだことは、どうやら本道ではなかったらしい。

「ここで学ぶべきだ!」

すぐに前の先生に断り、こちらに入門したのはいうまでもない。

通い始めると驚くことばかりだった。挙措動作だけではない。この先生は元仙台藩江戸家老の娘さんから茶の湯を学んだという。それだけに、道具が素晴らしかった。先生が仕切る茶会にはピンと張り詰めた空気が流れ、茶室内の道具の色や配置にもえもいわれぬ均整があった。

「やっぱり田舎の茶とは全く違う」

しばしば東京での一門の茶会にも招かれた。そのたびに、母・タケさんが着物、履き物を揃えてくれた。最高級の品ばかりだった。

智司青年はますます茶道にのめり込んだ。

それだけなら、単なる趣味、遊びの話である。
だが、智司社長は運に恵まれた人なのだろう。

頼久寺所蔵『小堀遠州像』

「この先生が小堀遠州が好きだったのがいまに繋がっていると思うのです」

千利休の茶道は、古田織部、小堀遠州と引き継がれる。「わび・さび」を尊んだ利休に比べ、遠州は「綺麗さび」とでもいえる世界を開いた。どちらも一言で言い表すことは難しいが、あくまで質素さが極まるところに美を見いだす「わび・さび」に比べ、小堀遠州の「綺麗さび」には、質素さの中にも、どこかに華やかさが隠れているといったら良かろうか。遠州の「わび・さび」には「雅」(みやび)」があったという人があり、貴族趣味があった、と表現する人もいる。

例えば利休の茶室は造るたびに狭く、小さくなり、人が出入りするにじり口も刀を差したままでは出入りできないほど狭められた。勢い、茶室の中は薄暗い。

一方、小堀遠州が設計した茶室は窓が多い。にじり口も大きくなった。部屋の中はずっと明るくなる。

確かに、利休の世界には独特の重厚さがある。それは遠州には薄いが、代わって自由さ、伸びやかさがある、と智司社長はいう。

「はい、2人目の先生のおかげで私も小堀遠州が好きになりました。物静かな中にもハッとするような華やかさがある。それが何ともいえないほどいい。いまのマフラーデザインにもそんな私の好みがどこかで生きているような気がしています。もしあの先生が利休趣味で、私もその影響を受けて利休に走っていたら、松井ニットのマフラーもいまのようにはなっていなかったんじゃないでしょうか」

その教室に通ったのは10年ほどだった。仕事が忙しくなり、いつしか足が遠のいた。

松井智司社長が大事にする茶碗。遠州風と言われる

しかし、茶道との縁は切っていない。その後も時に触れ、仲間数人でこの先生の家元で修行した茶人を桐生に招いて茶の湯を学び続けた。

いまでも智司社長は茶会を主宰する。その茶室にも小堀遠州趣味が漂っていることはいうまでもない。そして、松井ニット技研のマフラーにも遠州の香り、「雅」がどこかに漂っているのではないか?

写真:松井智司社長のお手前。

その13 日米繊維交渉

日本からの繊維製品輸出が米国で問題になったのは1955年からのことである。この年、アメリカは繊維製品の関税を引き下げた。すると1ドル=360円という為替の固定相場に守られて安価な日本からの綿製品がどっと流れ込んだ。これに反発したのが、日本製品にマーケットを奪われた米国の繊維業界である。突き上げられた米国政府は日本に働きかけ、1957年、両国は日米綿製品協定を結んで日本は綿製品の対米自主規制を始めた。

間もなく米国の繊維業界が矛を収めたため、当時は一過性の騒ぎと受け止められていた。その後日本の繊維が問題化することはなく、日米繊維交渉が始まる少し前の1968年、ジョンソン政権下で行われた米国繊維産業の実態調査では、米国繊維産業はかつてない成長をしており、利益率は他の製造業に比べて大きい、と結論づけていた。加えて、安い輸入繊維製品は低所得者層の暮らしを助けているとも指摘している。

消えてしまったと思われていたこの問題に再び火を点けたのは、元大統領のニクソンである。1968年の大統領選挙に共和党から立候補したニクソンは、「毛・化学繊維の輸入にまで規制の枠を広げる」という公約を掲げる。行き過ぎとも思える規制案に米国内でも批判が寄せられた。ニクソンの挑戦を受けた民主党のジョンソン大統領は自由貿易の堅持を主張した。しかし、選挙戦に勝ったのはニクソンだった。そして翌1969年1月に大統領に就任したニクソンは、間髪を入れず、5月にモーリス・ヒューバート・スタンズ商務長官を日本に派遣した。当時の愛知揆一外相と会談したスタンズ長官は、日本繊維製品の対米輸出を自主規制するよう求める。いわゆる日米繊維交渉の幕が開いた。

いま顧みても、米国の主張は根拠が曖昧だとしか言いようがない。こんなことで国内繊維産業の首を絞めるわけにはいかないと日本政府は抵抗を続けた。
だが、日本政府も抵抗しきれない事情を抱えていた。沖縄返還問題である。一刻も早く沖縄の施政権を日本に返還して欲しいという日本政府に、米政府は交換条件として繊維規制を飲むように迫ったのである。やむなしと判断した1971年、日本政府は米国の要求を受け入れた。
こうして1972年、沖縄が日本に戻った。当時の佐藤政権は「糸で縄を買った」と揶揄された。

長々と歴史の一幕を書き連ねたのは、あれほど順風満帆の経営を続けていた松井ニット技研も、日米繊維交渉の結果に大きな打撃を受けたからである。作っても作っても足りないほどだった対米輸出用のマフラーが、交渉決着からそれほど日がたたないうちにほとんどゼロになったのだ。

アメリカ向けマフラーに頼りきりだった経営は奈落の底に落ちた。10人ほどいた職人さん全員を雇用し続けるのが難しくなり、うち数人に辞めてもらった。

「本当に目も当てられないぐらいで、一時は真剣に廃業も考えました」

と智司社長はいう。

松井智司社長は地獄を覗いたのである。
しかし、考えようによっては世の中とは面白い。あのまま対米輸出が好調さを続けていたら、松井ニット技研は、納入先の意匠に従って白色のウールで目の粗い無地のマフラーを作り続けるOEMメーカーのままで終わっていたかも知れないのだから。

「対米輸出が絶好調だった10数年は我が世の春でした。私はもともと遊び大好き人間なので、あの絶好調が続いていたらきっとダメ人間になっていたでしょうね」

気を取り直した智司社長は、商社で働いていた弟の敏夫さんを呼び戻して2人3脚の経営を始める。
そして、初めてデザイナーの入り口に立つのである。

写真:佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン米大統領(1969年11月米ホワイトハウスにて)出典/Richard Nixon Foundation HP

その14 デザイナーズブランド

世の中とは良くできたものである。繊維製品の対米輸出が激減して国内の繊維関係者が青くなっていた頃、その落ち込みをカバーする意図があったとは思えないが、Made in Japanのデザイナーズブランドがムクムクと頭をもたげていた。欧米から流れ込む一方だった衣服のデザインを、日本でも創って世界に発信しようというデザイナーが雨後の竹の子のように現れたのである。彼らは、その素材を当然のように国内で物色し始めた。

衣服のデザインとは、人に優れたデザインセンスがあれば、あとはデザイン帳と鉛筆、消しゴムさえあればできる、というものではない。素材となる生地を、色、柄、風合い、肌触りなど様々な要素をもとに選び出し、それを裁断して組み合わせ、縫い上げて身にまとう衣装にまでに仕上げなければデザインは完成しないのだ。そのすべてに最高のものを求めるのがデザイナーという人たちである。

桐生に戻った敏夫専務は商社で培った人脈を活用した。注目され始めていたデザイナーたちに次々に営業をかけていったのである。すぐに反応が戻り始めた。山本寛斎、コム・デ・ギャルソン、イッセイ・ミヤケ、ハナエ・モリ、ドン小西、VAN、JUN……。いまでは多くの人が知っているデザイナーたちが松井ニット技研の編み物に注目してくれたのだ。数多くの新進デザイナーが次から次へと桐生の松井ニット技研を訪ねて来た。

おそらく、アメリカからの注文通りのマフラーを編むために編み機を改造し、編み上がったマフラーを1本1本自分たちの目で点検した上で出荷する真面目で前向きな姿勢と、だからこそ現れた美しい編み目が敏夫専務が持ち歩いた商品サンプルに現れ、デザイナーたちの信頼を勝ち得たのに違いない。

「一番足繁く通っておいでになったのは、ギャルソンの川久保玲さんでした。とても頭のいい方で、私の話を熱心にお聞き下さり、驚くほどの速さで自分のものにされる能力にいつも驚かされたものです」

と智司社長はいう。

デザイナーからの仕事とはいえ、向こうの注文通りのニットを編み上げて納品するという点ではこれまでのOEM生産と何の違いもない。しかし、デザイナーが求めるニットには量産品のマフラーとは違うものがあった。

デザイナーたちは、自分が生み出そうとしているデザインに命をかける。半端な仕上がりでは世界のファッション市場で高い評価を得ることはできないのだ。それだけに、松井ニット技研に注文してくるニットの仕上がりへのこだわりは半端ではなかった。

自分が作るのはこれこれこういう服である。その中で、松井ニットの生地はここでこう使いたい。だから、こんな色にして、手触りは、風合いは……。

詳細を極める注文が舞い込み始めた。

写真:ドン小西さんの求めで編み上げた「フィッチェ・ウォーモ」ブランドのマフラー。