カンディンスキーの2人目の妻でその死を看取ったニーナ・カンディンスキーが初めて彼の絵を見たのは、まだ学生時代のことだった。もちろん、知り合う前のことである。
彼女はその時のことを、その著書、「カンディンスキーとわたし」(みすず書房)に次のように書いている。
「学校の休み時間に、わたしは女友達に連れられて、ボルシャヤ・ディミトゥリフカの公共の建物で開かれた現代ロシア美術展を見に行った。はっきり言って、その展覧会はわたしたちには一向に面白くなかった。いやそれどころか、展示された絵にわたしたちはむしろ反感を抱いたほどだった。但し一つだけ例外があった——。
そこに他のどんな作品ともはっきり異なった絵を1点見つけたのだ。わたしははじめて色彩と形態の魅力を知り、その魅力のおかげで、その後わたしにはカンディンスキーの世界を開くきっかけができたのである。遠くから見るとその絵は、ゆらゆら燃える火のような印象を呼び起こし、たえずめらめら燃え上がるその炎はお伽の世界のような強烈な色彩効果を生み出していた。ためらいながら、幾分おぼつかなげにわたしはその奇妙な絵に近寄ってみた、そして —— 生まれてはじめて —— 抽象芸術を目のあたりにしたのだ。信じられない光景! 勿論わたしはその画家の名前に関心をいだき、それをやっと絵の右下に見つけた —— その絵は、ワシリー・カンディンスキーの手になるものだった」
その後、51歳のワシリーと結婚したニーナは、彼の死後は唯一の遺産相続人となった。再婚はせず、ワシリー・カンディンスキーの絵画への理解を広めようとカンディンスキー財団を設立、亡き夫の研究・絵画の展示、保存に努めた。財団がポンピドゥー・センターへ多額の寄付をしたのも、その一環だった。
「その18」でも触れたが、智司社長がワシリー・カンディンスキーの絵画にはじめて触れたのは30歳台後半、若手のデザイナーに誘われてパリのポンピドゥ・センターを尋ねたときである。そして、後に妻となるニーナと同じように、強烈な印象を受けた。
智司社長も学校の教科書に掲載されていた抽象画は見た覚えがあった。しかし、実物は初めてである。その部屋には確か10数点のカンディンスキーの絵があり、まず大きさに圧倒された。1枚は自宅の障子2、3枚分はある。
「一言で言えば、ただただ『えっ!』という感じでした。とても華やかで、たくさんの色が一見しただけでは好き勝手にキャンバスに塗られているのに、ごてごてした感じはないしいやらしくもない。きっと、綿密な計算があって成り立っている色彩の世界なのでしょう。何が描かれているかは抽象画ですから分からないのですが、スーッと引き寄せられるような迫力がある。これはもう、好きとか嫌いとか、綺麗だとか汚いとか、そんな世界を越えているな、と」
絵の前で足が止まった。絵に魅入られた、ともいえる。たたずんだまま、次から次にカンディンスキーの絵を見続けるうちに、智司社長の脳裏に、幼いころたくさん見た友禅染の和服が浮かんだ。
「ええ、母方の叔母が高崎市の友禅染の工場に嫁いでいたでしょう。だから、友禅染はたくさん目にしたし、その多色の世界に慣れ親しんでいたからでしょう。ああ、日本も西洋も、たくさんの色を使いこなして美しい世界を作りだしているんだな、って思ったんです」
同時に、なぜか中学の地理の授業を思い出してもいた。担当の先生が休職したとき、代わりに臨時で来た女性教師である。小学校5、6年生の時の担任で、当時は珍しい師範学校出であった。
彼女は毎時間、教科書には載っていない地理の知識を黒板にズラズラと書いた。書き終えると、必ずこう言った。
「これはテストに出る範囲ではありません。でも、知りましたか?」
おそらく、世界とはとてつもなく広いところで、世界を知るには教科書程度の知識では足りない。あなたたちには世界を知って欲しい。テストには出ないが頭の片隅に置いておいた方がいい知識がある、と言いたかったのだろう。
「ええ、カンディンスキーの絵を見ながら、『知りましたか?』という先生の言葉を思い出し、ついつい『はい、知りました』と答えていたんです」
智司社長の美の世界が広がった。
和の美と洋の美が智司社長の中で、「多色」を通じて重なった。智司社長が自覚しないまま、色彩デザイナーとして花開く準備が、ここでも一つ積み重ねられた。
写真:「カンディンスキーとわたし」