その20 和と洋

カンディンスキーの2人目の妻でその死を看取ったニーナ・カンディンスキーが初めて彼の絵を見たのは、まだ学生時代のことだった。もちろん、知り合う前のことである。

彼女はその時のことを、その著書、「カンディンスキーとわたし」(みすず書房)に次のように書いている。

「学校の休み時間に、わたしは女友達に連れられて、ボルシャヤ・ディミトゥリフカの公共の建物で開かれた現代ロシア美術展を見に行った。はっきり言って、その展覧会はわたしたちには一向に面白くなかった。いやそれどころか、展示された絵にわたしたちはむしろ反感を抱いたほどだった。但し一つだけ例外があった——。
そこに他のどんな作品ともはっきり異なった絵を1点見つけたのだ。わたしははじめて色彩と形態の魅力を知り、その魅力のおかげで、その後わたしにはカンディンスキーの世界を開くきっかけができたのである。遠くから見るとその絵は、ゆらゆら燃える火のような印象を呼び起こし、たえずめらめら燃え上がるその炎はお伽の世界のような強烈な色彩効果を生み出していた。ためらいながら、幾分おぼつかなげにわたしはその奇妙な絵に近寄ってみた、そして —— 生まれてはじめて —— 抽象芸術を目のあたりにしたのだ。信じられない光景! 勿論わたしはその画家の名前に関心をいだき、それをやっと絵の右下に見つけた —— その絵は、ワシリー・カンディンスキーの手になるものだった」

その後、51歳のワシリーと結婚したニーナは、彼の死後は唯一の遺産相続人となった。再婚はせず、ワシリー・カンディンスキーの絵画への理解を広めようとカンディンスキー財団を設立、亡き夫の研究・絵画の展示、保存に努めた。財団がポンピドゥー・センターへ多額の寄付をしたのも、その一環だった。

「その18」でも触れたが、智司社長がワシリー・カンディンスキーの絵画にはじめて触れたのは30歳台後半、若手のデザイナーに誘われてパリのポンピドゥ・センターを尋ねたときである。そして、後に妻となるニーナと同じように、強烈な印象を受けた。

智司社長も学校の教科書に掲載されていた抽象画は見た覚えがあった。しかし、実物は初めてである。その部屋には確か10数点のカンディンスキーの絵があり、まず大きさに圧倒された。1枚は自宅の障子2、3枚分はある。

「一言で言えば、ただただ『えっ!』という感じでした。とても華やかで、たくさんの色が一見しただけでは好き勝手にキャンバスに塗られているのに、ごてごてした感じはないしいやらしくもない。きっと、綿密な計算があって成り立っている色彩の世界なのでしょう。何が描かれているかは抽象画ですから分からないのですが、スーッと引き寄せられるような迫力がある。これはもう、好きとか嫌いとか、綺麗だとか汚いとか、そんな世界を越えているな、と」

絵の前で足が止まった。絵に魅入られた、ともいえる。たたずんだまま、次から次にカンディンスキーの絵を見続けるうちに、智司社長の脳裏に、幼いころたくさん見た友禅染の和服が浮かんだ。

「ええ、母方の叔母が高崎市の友禅染の工場に嫁いでいたでしょう。だから、友禅染はたくさん目にしたし、その多色の世界に慣れ親しんでいたからでしょう。ああ、日本も西洋も、たくさんの色を使いこなして美しい世界を作りだしているんだな、って思ったんです」

同時に、なぜか中学の地理の授業を思い出してもいた。担当の先生が休職したとき、代わりに臨時で来た女性教師である。小学校5、6年生の時の担任で、当時は珍しい師範学校出であった。

彼女は毎時間、教科書には載っていない地理の知識を黒板にズラズラと書いた。書き終えると、必ずこう言った。

「これはテストに出る範囲ではありません。でも、知りましたか?」

おそらく、世界とはとてつもなく広いところで、世界を知るには教科書程度の知識では足りない。あなたたちには世界を知って欲しい。テストには出ないが頭の片隅に置いておいた方がいい知識がある、と言いたかったのだろう。

「ええ、カンディンスキーの絵を見ながら、『知りましたか?』という先生の言葉を思い出し、ついつい『はい、知りました』と答えていたんです」

智司社長の美の世界が広がった。

和の美と洋の美が智司社長の中で、「多色」を通じて重なった。智司社長が自覚しないまま、色彩デザイナーとして花開く準備が、ここでも一つ積み重ねられた。

写真:「カンディンスキーとわたし」

その21 YEARLING

少しばかり話が脱線したかも知れない。だが、カンディンスキーとの出会いは智司社長に決定的な影響を与えたのではないかと筆者は思う。だからもう少し脱線を続ける。智司社長の「合唱」である。

桐生には、まだ戦後の混乱期ともいえる昭和23年(1948年)に市民合唱団が生まれている。「YEARLING」という。繊維で栄えた桐生には、いち早く文化を再生するだけの蓄積があったのだろう。

実家に戻って数ヶ月たった頃、高校時代の合唱仲間だった女性から誘われた。

「YEARLINGの公演があるんだけど、一緒に行かない?」

昭和33年、第10回定期演奏会だった。仕事の忙しさで忘れていた合唱への思いが蘇り、誘われるままに出かけた。客席で聴きながら

「自分のいべきる場所は客席ではない。舞台だ」

と痛感した。音楽への思いが行き続けていたのである。その場で入団の手続きをした。

「YEARLING」はユニークな合唱団だった。当初は群馬大学の教授が指導していたが、彼が転勤で退団すると、団員が自主運営をするようになった。指導者がいると、どうしても指導者の色、好みに染まってしまうのが合唱団である。ところが自主運営だから、どんな曲を取り上げるかは仲間内の相談で決まる。戦後に芽生えた民主主義的運営ともいえる。ジャンルを越えて様々な曲を歌った。

一時みんながはまったのが、ロジェー・ワーグナー合唱団である。「16世紀の聖堂の響き」というアルバムが売り出され、あまりに美しい合唱の響きに

「はい、YEARLINGの全員がカルチャー・ショックを受けまして」

自分たちもこんな合唱をしてみたい。だが、今と違って楽譜は簡単には手に入らなかった。耳コピを試みたがなかなかうまく行かない。1曲だけは何とかなったが、他の曲も欲しい。

「思いあまって、東京芸術大学の教授に手紙を書きまして」

全員で東京まで出かけ、合唱の指導を受けてきた。帰りには、喉から手が出るほど欲しかった楽譜もいただいてきた。ガリ版刷りの楽譜だから気楽にもらうことが出来た。

こうして「YEARLING」は、宗教曲にのめり込んでいく。

「YEARLING」の公演はいつも満員札止めの盛況で、1500人の会場に入りきらず、立ち見客が出るのが常だった。
ところが。

「あれはいつ頃ですかねえ。客の入りが悪くなったんですよ」

何とかしようと軽音楽に挑んだ。智司社長と4、5人の仲間が市内のギター教室に通い始めた。ピーター・ポール・アンド・マリー、ブラザーズ・フォーの曲をコピーしようというのである。

智司社長はオーディオにもこり始めた。アンプはこれにして、ターンテーブルは糸ドライブを選び、アーム、カートリッジは別々のメーカーのものを組み合わせる。スピーカーはイギリスのステントリアンを選び、コンデンサータイプのツイーターを加えた。東京・秋葉原に足繁く通ったのはいうまでもない。輸入レコードを買いあさったのもこの頃の話である。いわゆる「音きち」だった。

20歳で始めて2019年に退団するまで約60年。合唱の何が智司社長をそこまで惹きつけたのだろう?

「例えば宗教曲ですが、4つのパートがきちっと合うと、それまでなかった音が聞こえてくるんです。いわゆる倍音が生まれましてね。その倍音の美しさ、倍音を生み出すまでのプロセスの楽しさ。ええ、それが合唱の最大の魅力ですね」

ソプラノ・アルト・テノール・バスの4つのパートがきっちり合うと、単なるハーモニーを越えて倍音が生まれる。

それって、たくさんの色を組み合わせる松井ニット技研のマフラーと同じでは?

「いわれてみればそうですね。でも、合唱もマフラーも、『倍音』はなかなか出てくれませんが」

智司社長が

「本当に私の人生を豊かにしてくれました」

という合唱も、松井智司の美を醸し出す大事な要素なのだ。筆者にはそう思われてならない。

写真:YEARLINGの公演。前から2列目の左から2人目が松井智司社長。

その22 真っ赤なロングマフラー

話を元に戻そう。

パリを出た智司社長とデザイナーはコルシカ島に向かった。そこからニース、マルセイユと足を伸ばし、イタリアに入ってピサ、フィレンツェ、ローマ、ミラノと歩いた。デザイナーはミラノで

「私、これからちょっと用事がありますので、ここで」

と一人で次の目的地に向かった。一人になった智司社長は、再びパリに足を向けた。

これが初めてのヨーロッパ旅行である。パリはあこがれの街だった。足繁く松井ニット技研を訪れていたデザイナーたちの話には、必ずといっていいほどパリコレクションの話が出る。

「今年のパリコレはさ、○○のドレスがとても素晴らしくて……」

「パリコレに行ったら、シャンゼリゼは欠かせないよね。今年もね……」

行ってみたかった。パリのオシャレな雰囲気、芸術の空気の中に自分を置いてみたかった。でも、フランス語……。
行きたいという思いは募っても、とてつもなく遠いところだった。

しかし、英語とフランス語を自在に操るデザイナーと過ごしたパリとイタリアの旅は、智司社長に自信を与えていた。列車の乗り方は分かったし、ホテルの使い方も身についた。あとは片言の現地語さえ覚えればヨーロッパ旅行も怖くないじゃないか!
一人で旅を続けた。

「だから、あれをきっかけに何度もヨーロッパに出かけました」

この旅で、智司社長はもう一つ大事な体験をした。場所はフィレンツェ、時期は9月である。夏の名残を引きずりながら、やっと秋が訪れようかという季節だった。

「まだ半袖でもいいかなという気候でした。暑いんです。それなのに、カーキ色のロングコートを着込んで、それに真っ赤なマフラーを巻いている男の人がたくさん歩いている。何事だ、と驚きましてね」

当時の日本ではまだ、男は質実剛健であるべきだという風潮が強かった。オシャレは女性の専売特許である。オシャレをする男なんて女が腐ったようなものではないか。
女性の方々、申し訳ありません。当時はこのような表現がまかり通っていたのです。

子どもの頃から最高級品ばかり身につけさせられていた智司社長も、そう考える日本男児の一人だった。高級品を身につけるのと、チャラチャラしたオシャレをするのは似て非なるものである、と思い込んでいた。

「ところが、ここの男たちはまだこんなに暑いのに、季節を先取りして秋のファッションで身を包んでいる。コートだけならまだしも、首にマフラーを巻いて、マフラーの先っぽを地面を引きずりそうにしながら歩いているんです。そして、いかにもオシャレにレイアウトされた洋品店のウインドウをジッと見つめている。フィレンツェでは、男もファッションに関心が強いのか。これもカルチャーショックでした」

松井ニット技研はマフラーメーカーである。様々思いが駆け巡った。

マフラーとはそもそも防寒具である。それをこんな季節に使うか?

マフラーの先っぽが地面を引きずるような長いマフラーがなぜ必要なのか?

そもそも、男が真っ赤なマフラーを巻くか?

日本男児が守り続けてきた価値観が否定されたように感じた。だが、決して不快ではなかった。

「そうか、フィレンツェでは男もおしゃれを楽しむのだ。マフラーはオシャレの小道具の一つなんだ」

マフラーメーカーを率いる身として、窓が一つ開き、明るい陽光が差し込んできたように感じたのである。

写真:松井社長がイタリアで買ったマフラーの1本。真っ赤で、引きずるように長い。

その23 買い漁る

日本のデザイナーたちからの仕事受けるようになって、松井ニット技研もオシャレっぽいマフラーの製造を始めてはいた。だが、マフラーは先に染めた糸を使って編む。編んだあとで染めるのならたくさんの色が使えるが、先染めでたくさんの色を使うのは編む工程が複雑になりすぎる。だから、オシャレっぽいとはいいながら、ほとんどは単色のマフラーだった。使ってもせいぜい5色である。

しかし、フィレンツェでオシャレを楽しんでいるらしい男性たちがのぞき込んでいるウインドウには、たくさんの色を使ったマフラーがいくつも並んでいる。綺麗だ。

面白い。いずれ松井ニット技研もこんなマフラーを編むことになるのではないか。そんな予感を持ちながら智司社長はドアを開けて店内に入ると、

・全体の雰囲気

・色柄

・風合い

・糸の使い方

・サイズ 

・編み方

など参考になりそうなマフラーを10本前後購入した。

フィレンツェを出てミラノ、ローマを歩くと、智司社長の買い物は本格化する。目に着いたマフラーを片っ端から買ったのだ。ローマを出るときには、スーツケースがマフラーであふれかえっていた。

この旅で智司社長はいくつかのことを学んだという。

当時の日本のマフラーには楽しさが足りなかった。真知子巻きを例外とすれば、日本のマフラーは二重に折って首にかけ、前でクロスさせてその上から服を着るものだった。もっぱら首筋を寒気から守るもので、見せるものではなかった。だから色柄も地味だった。

しかしイタリアでは、マフラーは衣服の外に出して見せるものだった。だから明るい色が使われ、色数も多い。それにしても、男性用の真っ赤なマフラーとは!

日本のマフラーに足りないもの、それは「楽しさ」だった。

イタリアの洋品店のウインドウにも感心した。セーターやマフラー、傘などがみごとにコーディネートされ、ウインドウが一つのファッションの提案になっている。見ていて心が浮き立つ。フィレンツェでたくさんの男性がウインドウに見入っていたのもそのためだろう。

智司社長がミッソーニに出会ったのはミラノだった。そのブティックに並んでいる商品群に思わず目を奪われた。使われている色が実に綺麗である。それにミッソーニ独自の多色使いはみごとだ。色と色が喧嘩することなく、一つの世界をつくりだしている。

「思わず手を伸ばして買おうとしました。ところが、高い! マフラー1本が、当時の日本円に換算すると数万円もするんです。とても買えないと諦めました」

そのブティックに中年の婦人が入ってきた。何を買うんだろうと見ていると、やがて頭のてっぺんから足のつま先まで、その店で買ったミッソーニで身を固めて現れた。そして優雅にドアを開けると、歩き去った。

「いったいいくらの買い物をしたんだ!」

唖然としながら、

「でも、沢山の色が使われているのに、みごとにバランスが取れていてファッショナブルなんですよ。さすがにミッソーニです」

初めてのヨーロッパ旅行で智司社長は、ワシリー・カンディンスキーとミッソーニに出会った。後の智司社長から顧みれば、運命的な出会いだった。

だが、この時の智司社長はまだ、自分が多色のマフラーをデザインすることになるとは考えてもいなかった。イタリアのマフラーを買い集めたのは、あくまでマフラーメーカーとしての技術を高める参考資料としてでしかなかった。

写真:松井智司社長がイタリアで買い集めたマフラーの一部。いまでも大事に保存している。

その24 森山亮さん

桐生は衰退する繊維産業の町である。いま初めて桐生を訪れる人がいても、この町がかつて織物で全盛を誇った町と気がつく人は少ないかも知れない。

それは桐生人が一番痛切に分かっている。だから、織物の町、織都桐生を再興しようという試みは何度も繰り返されている。

昭和62年(1987年)にオープンした桐生地域地場産業振興センターもその試みの一つだった。織物の町桐生に勢いを取り戻す核にしたい、と関係者は意気込んだ。そして、

「この人ならやってくれるのではないか」

と白羽の矢が立ったのが森山亮さん(故人)である。明治時代、桐生の地で染色法、織機の改良に大きな功績を残し、近代の繊維産業史に名を残す森山芳平氏の血筋を引く森山亨さんは当時、大和紡績に勤めて衣料部長、製品部長、マーケティング部長などを歴任していた。職業柄、繊維についての深い知識と見識には定評があった。そして、ビジネスで培った幅広い人脈を持った人でもあった。

そこを見込み、

「桐生に戻ってこい」

と口説いたのは、桐生が生んだ世界的なテキスタイル・デザイナー、故新井淳一氏だった。

口説き落とされて桐生に戻った森山亮さんは桐生地域地場産業振興センター初代専務理事に就任するとすぐに動き始めた。翌昭和63年、産地桐生の新製品を一堂に集めた桐生テキスタイルプロモーションショー(TPS)を始めたのである。

「ええ、私どもも森山さんにお誘いいただいて展示会に出品しました」

と智司社長はいう。それが森山亮さんとの付き合いの始まりだった。

智司社長の記憶では、ショーは散々だった。あちこちからバイヤーが会場を訪れてくれたのだが、桐生の買い継ぎ(産地商社)が

「この人はうちの客だ。あんたたちは話さないでくれ」

と営業を遮った。だから、せっかく出品したのに、ちっとも客がつかない。

「しかし、森山さんからは、そんなものよりずっと大切なことを、数多く教えていただきました」

森山亮さんはTPSを毎年開くだけでなく、デザイナーやマーケティングのプロを桐生に招き、何度も講演会を開いた。おそらく、桐生に閉じこもってややもすると井の中の蛙になりがちな桐生の繊維関係者に

「世の中は広い。もっとたくさんのことを知り、たくさんの工夫をし、たくさんのネットワークを構築しなければ桐生の繊維産業の衰退は止まらない」

といいたかったのだろう。

智司社長には、そんなメッセージが心に響いた。

もっと琴線を揺すぶられたのは、親しくなった森山亮さんから、折に触れてもらったアドバイスである。

「発注元にいわれた通りに作っていてはダメです。自分で企画をし、作り、販売するようにならないといけません」

一言で言えば脱下請けを目指せ、ということなのだろう。下請けを脱して自分のブランドで商売をしなさい。あなたが創り出すものを直接市場に問いなさい。自立しなさい。

子供時代から工場の中が遊び場だった智司社長は、ものづくりが心の底から大好きだ。だからOEMメーカーではあっても、いい意味で発注者を裏切る製品を作り出そうと頑張ってきた。だが、それでもOEMメーカー、下請けであることに変わりはない。

「ええ、私、勘は鈍い方ですから、お話しを承った時は『なるほど、そんな時代が来るのだろうなあ』と感じただけだったのですけどね」

それが、しばらく後に花開くことになる。

写真:桐生地域地場産業振興センター