桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第1回 桐生は特別な町だ

桐生市の中心街は本町通である。桐生天満宮から南にほぼ真っ直ぐ下り、総延長は約1.6㎞。かつては数多くの商店が軒を連ねる繁華街だった。
北から本町1丁目〜6丁目と続く。1丁目と2丁目の境界を道が西に走っており、いまは日蓮宗の寺院、寂光院に達する。ここにはかつて、江戸幕府が置いた陣屋があった。桐生はもと江戸幕府の天領だったのである。この道沿いを横山町という。役人の町だった。

この一帯は長い間、荒戸、または安楽土と呼ばれていた。どちらも「あらと」と読む。渡良瀬川、桐生川に挟まれた扇状地で、農耕ができない荒れ地だった。この荒戸に縄入れをし、町を作ったのは徳川家康の重臣だった大久保長安と、その手代だった大野八右衛門である。この町立てがいつ始まったかには諸説あるが、いずれも1600年前後と推定している。

こうして、荒れ地に新しい町ができた。桐生新町という。いまの桐生の礎を築いた2人、なかでも現地で町立ての実務を差配した大野八右衛門は桐生の恩人といえる。
2024年は大野八右衛門の没後410年にあたる。これをしのんで3月、「桐生新町町立て祭」が開かれ、命日の3月22日には桐生市梅田町1丁目の鳳仙寺で「大野八右衛門追善祭」が催された。

森村秀生さんは桐生市本町6丁目に生まれ、人一倍の愛郷心を持つアマチュアの郷土史家である。市内を歩き回り、人に話を聞き、古文書の読み方を学び、遠くまで足を伸ばして歴史学者と語り合い、ふるさと桐生の生い立ちを自分なりに再構成してきた。
そんな森村さんが見逃せない講演会が、「大野八右衛門追善祭」の一環として鳳仙寺で開かれた。タイトルは「桐生新町と大野八右衛門」。森村さんは妻・悦子さんと一緒に話を聞きに出かけた。

会場には30人ほどの歴史好きが集まっていた。講師は郷土史家である。森村さんはメモを取りながら熱心に聞き入った。

・桐生新町の町立てには、同時代に作られた文書などの一次資料が少ない
・そのため、後代の人がさまざまな説を勝手に仕立て、真実が見えなくなっている

講師はこうした視点から、航空写真で群馬県内各地の「町立て」を桐生新町と比較することで、桐生新町町立ての正しい姿にアプローチするという。なるほど、そんな手法もあるのか、と頷きながら聞いていた森村さんは、だが、次の瞬間に

「それは違うのではないか?」

と疑問を持った。おおむね江戸時代に町立てされた場所の航空写真を示しながらの講師の話は、森村さんの耳には

「町立てされたところはいずれも真っ直ぐな道が通っている。桐生の本町通が直線であることで、桐生は特別な町立てがなされたといわれるが、航空写真を見れば町立てされたところはどこも真っ直ぐな道が通っており、桐生だけが特別なわけではない」

と聞こえた。桐生新町が特別ではないって? 違うよ、それ。

最後に質疑応答の時間があった。が、誰も手を挙げない。であれば、と森村さんが立った。

「確かに、町立てされたところには同じような一直線の道がある。しかし、それだけで、桐生新町の町立てが特別ではないということにはならないのではないですか?」

・桐生には水車を使うためだと思われる掘り割りがある
・長さが1.6㎞もある直線道路は他に例を見ない
・梅田から浄水を引いている。これも他に例がないのではないか
・桐生新町の重要な場所には深い井戸を掘っている

やはり、桐生新町は多額の開発資金を注ぎ込んだ「特別」な町立てをした町ではないのか?

講師から回答をもらった記憶はない。だが、隣に座っていた人がそっと言った。

「これ、森村さんの勝ちだね」

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「きりゅう自慢」はこれまで、筆者が自慢したい桐生を描いてきた。だが、今回はやや趣向を変える。桐生を自慢するためには、桐生の生い立ちを知らねばならない。そう思い立ち、桐生市の中核である旧桐生新町が生まれた経緯の探索にのめり込んだ森村秀生さんの物語である。
探索の末、森村さんは

「桐生は徳川家康と深い関係がある。桐生は家康を祀る日光東照宮への入口である聖なる町として徳川幕府の手で町立てされた」

との信念を持つに至った。
森村さんの研究の後を追い、森村史学をご紹介したい。

写真=森村さん夫妻

日本1のフローリスト—近藤創さん その16 育成

魂を入れる——近藤さんは毎月1回、県内で講習会を開き始めた。対象は群花協、花キューピットのどちらかに加盟している群馬県内の花屋さんである。自分で講師を務めた。それだけでなく、年に数回は外部から講師を招いた。全国大会で上位に入賞する後進を育てたい!

ゼロに極めて近い地点からの出発である。成果はなかなか出なかった。個人レッスンまでした伊勢崎市の花屋さんが、ワールドカップにつながる花キューピットのジャパンカップで3位に入賞したのは、やっと1995年になってからだった。近藤さんが若手育成に取り組み始めて10年もの歳月がかかったことになる。それから10数年後、日花協(日本生花商協会)のコンテストで優勝したのは草津の花屋さんである。近藤さんの長女メイさんが同じコンテストで2位に入るまでには、それからさらに8年ほど待った。
成果は、少しずつだが確実に現れ始めた。

しかし、近藤さんはいう。

「ホント難しいですねぇ、若手を育てるって。基本は教えることができます。しかしどう工夫をしても、私にできるのはそこまでです。フラワーデザインというのは、最後は感覚の世界ですから、あとは身につけた基本をベースに一人ひとりが自分の感性を研ぎ澄ますしかない。そこは指導が及ばない世界ですからねえ」

では、感性を磨くには何が必要なのか。

「色彩、造形のすべてです。衣服のカラーリング、建築の造形、色、内装色、店舗デザイン、自動車のデザイン……。流行色が年々変わり、色の組み合わせも常に新しくなる。ビルの建築様式も変われば、目新しい店舗が次々に登場し、車はモデルチェンジを繰り返す。時代が求めるものは年々変わります。いまの時代のあらゆるものを見て、触れて、感じて、吸収し、次に来るものを予想して自分で形作る、ということでしょうか。言うは易く行うは難し、ですけどね」

2022年、「花清」の4代目である次男、薫さんが花キューピットのジャパンカップで7位に入賞した。

「ええ、喜んでいます。薫には私を超えて欲しいですね」

2018年、近藤さんはすべての役職を退いた。もう時代の最先端の感性を吸収し生み出すことはできない年齢に達したと自分で判断した。新しい時代を切り拓くのは若い人に任せるしかない。かつての日本1のフローリストはいま、一介の花屋のおやじになった。

近藤さんの作品 16

だが、このオヤジには自分が創作したフラワーデザ

「フラワーデザインの写真集をつくりたい。作家を紹介してほしい」

と花キューピットに依頼し、近藤さんが12人の1人として推薦されて出来た本である。書名を「現代のフラワー・アーティスト 近藤一」という。プロのカメラマンが近藤さんの作品を撮り、美しいカラー印刷で近藤さんが生み出した「美」を伝えている。
その写真集を開いた。「出会い」「やすらぎ」「響き」「うつろい」「喜び」というテーマに分けられて近藤さんの作品が並ぶ。得も言われず美しい。

写真集をめくりながら思った。この造形を産みだした感性はいまでも近藤さんの中に息づき、客の求めで手がけるフラワーデザインに生きている。近藤さんはやっぱり、一介の花屋のおやじではない。

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最後に1つだけ受け加えておく。近藤さんの名前である。
両親にもらった戸籍上の名前は「一」である。だが、両親とも亡くなったあと、「創」に改名した。どちらも「はじめ」と読む。
華道、草心古流の家元として、父・宗司さんは「理宗」の雅号を持つ。それを引き継いだ近藤さんの雅号は長年「理一」だった。

「あまりに簡単すぎるような気がしまして。創にすると、雅号は『理創』になって読みも父の雅号と同じになりますし」

戸籍名までは変えていないが、いまは「創」で通している。
連載のタイトルに「近藤創」と書き、本文では「一」と書いているため、どこかで説明しなければと思っていたが、これまでの文脈では機会がなかったので最後に付け加えた。

写真:近藤さんはおしゃれである

日本1のフローリスト—近藤創さん その15 仏つくって

1980年代の後半、日本は未曾有の繁栄を謳歌した。株価、地価が天井知らずに上昇した。札束に羽が生えて日本中を飛び回っていると表現する人もいた。
そのバブル経済が崩壊したのは1990年である。景気が過熱したと判断した日本銀行は89年5月から金利を引き上げ始めた。歩調を合わせるように政府も地価抑制に動き出す。それでも日経平均株価は89年末に3万8915円の史上最高値をつけたが、さすがに年が明けると株価に伸び足がなくなった。こうして日本は失われた10年、20年、30年といわれる時代に足を踏み込んだ。

近藤さんが世界1への夢を諦めた1995年は、バブル経済の崩壊が地方都市でも肌身で感じられ始めた年でもあった。生花店の売り上げが落ち始めた。売り上げにブレーキがかかり始めた花屋さんは、後継者はともかく、店員までをコンテストに送り出すゆとりをなくし、勢いコンテストの出場者が減った。フラワーデザインの世界にもバブル崩壊の波が押し寄せてきたのである。

それなのに、作品はまだバブルの痕跡を引きずっていた。作品は相変わらず年々大きく、豪華になったのである。確かに、見応えはある。だが、狭い作業場しかない花屋さんには、大きな作品は練習する場所がない。やりたくてもできないのである。出場者の減少にますます拍車がかかった。

ワールドカップ国内予選から1ヶ月後、近藤さんは花キューピットの指導員を降りた。直接の引き金が世界1への道を絶たれたことだったことは間違いない。だが、世の変化を感じ取った近藤さんが

「このままではフラワーデザインが衰退してしまう」

という危機感に駆られたからである。世界1への夢は諦めた。しかし、フラワーデザインの衰退はなんとか食い止めたい。何をしたらいいのか?

続けてきた花キューピットの指導員を続けて全国の花屋さんを指導するのも1つの選択ではある。だが、近藤さんは違った道を選んだ。もっと身近な地元群馬のフラワーデザインを底上げしようと思い立ったのだ。私は1人しかいない。1人で出来ることには限りがある。薄く広く後継者を育成するより、身の回りに力を集めて地盤を踏み固める方がいいのではないか?

   近藤さんの作品 15

それまで群馬県は近藤さん一強の時代が続き、後進が育っているとは決していえなかった。大きなピラミッドを作ろうと思えば、基盤を大きく、丈夫にしなければならない。競い合うライバルが数多くいて初めて、その頂点に立つ者はほかの誰よりも高みに立つことができる。考えてみればこれまでの群馬は、基盤が小さいのに私だけが何故か高くにいた。それが失敗の原因ではなかったのか? 私以上のフローリストを地元から出したい。それにはフラワーデザイナーを増やし、育てなければならない。

近藤さんは32、3歳のころ、群馬県生花商業協同組合(群花協)の専務理事に頼まれて「フラワーデザインコンテスト 群馬グランプリ」を立ち上げていた。若手フローリストを育成するのが狙いではあった。しかし、近藤さんは相変わらず家業の傍ら全国を飛び回って講習会の講師を務め、様々なコンテストへの出場を重ねていた。地元で後進の育成に力を注ぐ余裕などほとんどかった。ジャパンカップの県予選として大会は毎年開催してはいたが、相変わらず近藤さんを脅かすような若手は出て来なかった。

「これでは、仏作って魂入れず、じゃないか、と気が付きまして。それで、魂を入れなきゃと思い立ったんです」

近藤さんは動き始めた。

写真:近藤さんは桐生えびす講の世話人も務める

日本1のフローリスト—近藤創さん その14 挫折

1995年は日程の関係で、インターフローラ・ワールドカップの国内予選と花キューピットのジャパンカップ大会が同じ宮崎市の会場で、同じ日に開かれた。まずジャパンカップの競技会が開かれ、その上位入賞者と、直近4年間の実績でワールドカップ予選への出場権を持つ人合わせて10人前後がワールドカップ予選で作品の出来を競った。近藤さんはワールドカップ予選への出場権をすでに持っていたから必要はなかったが、それでもジャパンカップにも出場した。

これまで6年間、この日に向けてデザイン、練習を積み重ねてきた。仕上がるたびに、自分で自分の作品に見とれた。努力は無駄ではなかった。これまでにないほど力はついているはずだった。
そして、2年前のワールドカップ・ストックホルム大会で日本代表のアシスタントを務めた実績もある。
だから機会があるたびに、周りの人たちは

「2年後のワールドカップは近藤さんだね。がんばって下さい」

と励ましてくれる。
近藤さんが自信をもって宮崎に乗り込み、この日に臨んだのはいうまでもない。

ところが、思いもよらなかった異変が起きる。最初に開かれたジャパンカップの作品を仕上げた時、何故か

「ヤバいなあ」

という思いにとらわれたのである。どこをどう間違ったのか、何が足りなかったのか、あるいは多すぎたのか、仕上げたばかりの自分の作品が光っていない。他の出場者の作品に比べてくすんでいる。
間もなく懸念が現実になった。結果は散々だった。上位10位にも入れず、等外に落ちた。

あわてた。自分にいったい何が起きたのか? 体中にみなぎっていた自信がどこかに流れ去っていった。気を取り直す間もなくワールドカップ日本予選が始まった。

「私が目指したのはジャパンカップの優勝じゃない。ワールドカップに出ることだ、世界一になることだ、と気を取り直したつもりだったんですけどね」

審査結果は2位。ワールドカップ日本代表は1人だけである。近藤さんの夢が、この時絶たれた。

「ジャパンカップで等外に落ちたことで動揺していたんですかねえ。2つの大会がいつものように別の日に開かれていたら結果は違っていたのでは、なんて考えたこともありますが、要はそれだけの実力だったんですね」

ワールドカップは4〜5年に1度開かれる。次の大会を狙うという選択肢もあった。しかし近藤さんにその選択肢は問題外だった。それでは42歳を越えてしまう。目標に据えていた村松さんと肩を並べることはできないではないか。
近藤さんは、夢を、捨てた。

   近藤さんの作品 14

「はい、踏ん切りをつけました。目標に届かなかったんだから、そうするしか仕方ありませんでした」

若き日の栄光にしがみつき、栄光を求め続けることに費やされる人生もあるだろう。しかし、勝つばかりの人生には陰影がない。いつもキラキラしている人生に深みが出るか? 人は皆、生まれ落ちて成長を重ね、頂点を極めたあとは多かれ少なかれ衰える。老いを得た身を人目から隠す俳優もいるが、老いた身を堂々とスクリーンに映し出すクリント・イーストウッド、ロバート・レッドフォードのような名優たちもいる。栄光だけが人生ではない。頂点から滑り落ちる深い挫折を知って初めて、さらに豊かになる人生もあるのではないか。

「ええ、そう考えれば、私は失敗して良かったのかも知れません。あれでワールドカップに優勝でもしていたら、鼻高々のいやな男になっていたかもしれませんから」

近藤さんはこのあと、新たな道を歩き始めるのである。

写真:宴席での近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その13 世界一を目指す

1989年、花のワールドカップといわれるインターフローラ・ワールドカップ(Interflora World Cup 1989)が東京で開かれた。世界最大の生花店組織であるインターフローラが1972年に始め、4〜5年に1回開くフラワーデザインの競技会である。フラワーデザインのオリンピックともいえる。
アジアで初めて開かれたこの大会で、日本代表で出場した村松文彦さんがみごと優勝して世界1のフラワーデザイナーになった。
村松さんはこの年、42歳。近藤さんより8歳年上である。

「よし、私も42歳までに世界1になる。村松先輩と肩を並べたい」

近藤さんは、村松さんと肩を並べようと志したのだ。新たな挑戦である。目指すのは1997年のワールドカップ。この大会で優勝すれば、近藤さんは39歳での世界一になる。村松さんより早い。

それまでにも増してフラワーデザインにのめり込んだ。ワールドカップの国内予選に出るには直前4年間の実績が必要だ。8年先を目指して様々なコンテストに出続けた。相変わらず「無冠の帝王」に変わりなかったが、上位入賞は果たし続けた。総合成績で見れば、ダントツのトップだった。

1993年にストックホルムで開かれたワールドカップで、近藤さんがアシスタントとして日本代表に同行したのはそんな実績があったからである。アシスタントは、次のワールドカップで日本代表になる最有力候補が務めるのが慣例だった。1997年の日本代表は近藤さん、と近藤さん自身を含めて誰もが疑わなかった。

1995年は、2年後に迫った1997年ワールドカップ出場者を決める国内予選が開かれた年である。
その年の春、インターフローラ・ワールドカップのアジア大会である第1回アジアカップが台湾・台北市で開かれた。地元台湾を始め、韓国、シンガポール、フィリピンなど7つの国・地域からのフローリストが集まったこの大会に、日本からは直近2年の国内のコンテストでの上位入賞者4人が出た。近藤さんは当然その1人で、最年長である。

初めてのアジアカップで、運営に不慣れがあったのかもしれない。実に不思議な大会だった。
それまで近藤さんが出場したフラワーデザインのコンテストでは出場者が一堂に集まり、制限時間の中で作品を作った。だから花を飾り付ける姿や、制作中に出たごみの後始末など、出場者の姿勢も審査員の採点に響いていた。
ところがこの大会では、地元台湾からの出場者は、自分の作業場で制作した完成品を会場に運び込んだのだ。これでは、いったいどれほどの時間をかけて作り上げた作品なのか、出場者のフラワーデザインに対する姿勢はどうなのか、など分かるはずがない。
もっと戸惑ったのは、運び込まれた作品が、作品を置く台から大きくはみ出していたことだ。他の大会では、作品は台の大きさに合わせることが暗黙の了解だった。

   近藤さんの作品 13

「近藤さん、あれはどうなんでしょう?」

と言い出したのは、日本からの参加者だった。最年長の近藤さんが台からはみ出した作品の是非を審査委員に確かめに行ったのは、自分でも同じ疑問を持ったからだ。しかし、作品のサイズには明文の規定がないとそっけなく告げられただけだった。そうか、作品の大きさの制限は、私たちの勝手な思い込みだったのか?

戸惑うことばかりの大会で、優勝したのは台湾からの出場者である。やはり、というべきか。近藤さんは2位になった。日本人ではもちろん最高位だった。

ワールドカップの日本予選は、その年夏に開かれた。

写真:アジアカップに出場した近藤さん