【ボビンサイジング】
それでも、星野治郎さんは桐生一になった実感が持てなかった。もっと高みに上らねばならないと思い続けた。
ボビンサイジングの機械ができたらしいと耳にしたのは1970年頃のことである。それまでのサイジングは、糸を緩く巻いた綛(かせ)納めていたが、それだと一度糸巻き(ボビン)に巻き取らないと、次の工程である整経(経糸を揃える)ができない。
しかし、糊を付け終えた糸をすぐにボビンに巻き取れば工程を1つ省くことが出来、その分工賃も上がるはずだ。
星野さんはこの新型機械に飛びついた。
「全国でも俺が最初じゃなかったかな」
メーカーがある金沢まで日参し、何度も見て触って説明を聞いて発注した。ところが、自分の工場に据え付けたこの機械が満足に動いてくれない。説明書を繰り返し読み、指示通りの作業をしているはずなのに、上手く糊が付いてくれない。ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しているうちに、客が消えていった。星野サイジングから、「高品質」「安定」の2項目がなくなったからである。
「長い付き合いだから」
という情けはビジネスの世界には馴染まないのだ。
ボビンサイジング機の調整を続ける傍ら、全国を飛び回って客を捜し歩くこと1年。幸い、山梨県のメーカーから夜具地、座布団地の注文を取り付けて倒産を免れる一方、星野さんの執念は実り、機械が好調に動き出した。
こうなると話は早い。一度は取引が止まった市内の機屋からも注文が相次ぎ、間もなく機械を3台に増やしたものの注文に追いつけず、やがて自分で考案して機械を自動化したが、
「1年365日、機械を止める間がなかったよ」
星野サイジングは桐生にはなくてはならない会社になった。