FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その3 青春

青春時代とは、世の中を仕切っているように見える大人たちを憎みながら、でも、大人の世界に憧れる矛盾した時期である。大人ってなんて汚くてバカなんだろうと頭の一方で吐き捨てるのに、他方には早く大人の仲間になりたい自分がいる。親や教師に隠れてこっそりタバコを吸って粋がるのも、酒を口にして酔いを覚えるのも、一足飛びに大人の自由な世界に飛び込む早道だと見えるからでもある。

この時期に、車やバイク、飛行機などのメカに強烈な魅力を感じ始めるのも、閉ざされた世界で日々悶えている今の自分を、鎖をぶっちぎってもっと自由な世界に運び出してくれる強力な武器に見えるからではないか。

二渡さんの記憶によると、車とバイクに強く惹かれ始めたのは中学時代のことだった。車のアクセルを思い切り踏み込み、自在に操ってみたい。バイクで初夏の心地よい風を切り裂きたい。自宅の近くに、車高を低く、いわゆる「シャコタン」に改造した車、ピカピカに磨き上げた、いかにもかっ飛びそうな大型バイクを自在に乗りこなしている先輩たちがたくさんいたからかも知れない。

とりわけバイクにのめり込んだ。バイクの図鑑を手に入れて飽きずに眺め、街中を、山道を、草原を走り回る自分の姿を思い浮かべた。

「うーん、いま思えば、車やバイクが大人のシンボルに見えたのかも知れませんね」

バイク熱は高校に進んでも冷めなかった。いや、益々燃えさかった。

「バイクの方が早く免許が取れるんですよ、16歳で。だからでしょうね。車への関心はもちろん持ち続けていましたが、『もうすぐ乗れる』バイクへの思いが高まる一方でした」

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その4 転職人生

二渡さんは4度に渡って離職を繰り返した。それも、仕事が嫌になって辞めるのではない。職場に居づらくなったのでもない。計算ずくで、次の仕事の見通しをたててから辞めるという利口さとも無縁である。
何となく、

「いまの仕事は違う」

という思いに背中を押されるのである。

そして不思議なことに、そのたびに、おそらく自分でも意識しないまま、一歩ずつ「FREE RIDE」への歩みを続けたように見える。

最初に選んだ仕事は営業だった。初めて大人の世界に足を踏み入れ、戸惑いながらも人との接し方、言葉の選び方、気遣いの仕方など、大人の世界で求められる知識や経験を学び取っていった。順調なサラリーマン生活だったが、2年ほどで辞めた。

「何となく、『俺、こんなことやっていいのかな?』って考え出して、スパッと」

間もなく、先輩に声をかけられて男性用カジュアル衣料のブティックに勤めた。ファッションは大好きだったから渡りに船だったともいえる。

それなのに、本店長になって1年半後、この仕事も辞めた。二渡さんを見込んで本店長に引き上げた社長に挨拶に行くと、

「どうしたんだ?」

と聞かれた。思いの丈を話した。

「この会社には感謝しかありません。でも、外の飯を食ってみたくなりました。他の世界も見てみたい。いろいろな経験をしたいという思いが抑えきれなくなりました。見て、経験して自分が成長したら、またお世話になるかも知れません。今日までありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

次はレディース専門のブティックだった。これも声をかけてくれる人がいての就職だった。
再び一介の売り子からの出発である。だが、不満はなかった。
売るには商品を知らねばならない。女性物の服の試着を始めた。そして、チェックする。

・着やすいか

・動きやすいか

・美しいシルエットが出るか

・素材は肌に馴染むか

・日本人の体型に合うか

・……

女性客は自分のサイズを男性店員にはいいたがらないから女性の体型も頭にたたき込んだ。

「お客様にはこのサイズでいいと思いますが」

それが客の身体にみごとにフィットする。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す の5 服作り

相変わらず、見通しも計画もないままの離職である。年齢はすでに30歳。無鉄砲はもう、二渡さんの天性というほかない。何かが二渡さんを突き動かし続ける。

さて、どうしよう。まともに考え始めたのは職を離れてからだ。もう、「若い」という年齢ではない。親にすがるなどもってのほかで、すでに実家も出ていた。

「えっ、仕事辞めたの。だったら、うちの仕事を手伝ってよ」

前の仕事で付き合いがあった東京の取引先から、数件のオファーがあった。しかし、就職したら同じことを繰り返すのではないか? それに、大好きな桐生を離れて東京に出るのも気が進まない。だったら、いっそのこと起業するか?

いまの店舗の近くに店舗を借りて倉庫にした。ここを拠点に、東京のアパレルメーカーの仕事を桐生の染め屋さん、刺繍屋さん、縫製屋さん、プリント屋さんなどにつなぐ。メーカーは、織都桐生の全貌を知らない。織都桐生の職人さんたちは、メーカーに伝手がない。その仲介をする。倉庫は出荷待ちの製品の一時置き場である。
両方から喜ばれた。それに、10年ほど服を売り続けて、いつかは自分でも服を作ってみたいと思い始めていたから、

「少なくとも服を作る手伝いはしている」

という満足感もある。

人は欲張りだ。起業から1、2年は手伝うことだけで満足していたのに、やがて不満がムクムクと頭をもたげてきた。

「やっぱり、自分で服を作りたい!」

桐生市内で繊維を手がけている会社とは仕事を通じていい関係が築けていた。それぞれの職人さんの得手、不得手も分かってきた。彼等の得意分野をつないでいけば自分でも服を作れるのではないか?

「そう、そんなことを考えてるの。いいねえ。作ってサンプルを送ってよ。展示会にかけてみるから」

と声をかけてくれたのは東京のアパレルメーカーの部長さんだった。その一言が最後のダメ押しだった。

「よし、やってみる!」

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その6 バイクに乗るということ

必要は発明の母であるといわれる。この言い方を借りれば、不満は改革の源、ということになろうか。

店の品揃えは徐々に充実させた。バイクウエア専門店をうたう以上、バイクウエアなるものを世界中から探し出そうと試みた。だが、探しても探しても、バイクライダーのためにデザインされた服が見つからない。

「これならどうだ?」

と思ったのは、映画「イージー・ライダー」を産み出したアメリカで、バイクライダーの多くが使っている飛行機乗り用のフライトジャケットだった。米国のライセンスを得て、フライトジャケットを作っている会社が日本にあった。早速仕入れて店に並べた。

「ところがねえ、どうもしっくりこないんですよ」

アメリカで生まれたデザインだから総てが米国サイズである。手足の長さ、胴の丸さ、首の太さなど身体のつくりが米国人とは違う日本人に、米国サイズの衣服を着こなせる人は数少ない。

それだけなら、まだ何とか我慢もできたかも知れない。

「これはバイクには使えない」

と思ったのは、全体のデザインである。

フライトジャケットはもともと飛行機のパイロットが着用して最適になるようデザインされた。パイロットは操縦席に腰を下ろし、上半身は立たせて、あるいはシートの背にもたれて操縦桿を握る。腕は身体に寄せ、肘から先を軽く伸ばせば操縦桿に届く。昔の複葉機ならともかく、いまの飛行機にはセスナを含めて風防があるから風はまったく侵入しない。そう、車の運転席にいるのとあまり違わない。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その7  RIDERS N-3B

ある日、フラリと店に入ってくる人があった。中年過ぎの男性である。どうみてもバイクライダーには見えない。いったい何の用だろう?

「いや、うちでも同じようなジャケットの縫製をやってまして。通りかかったらそのジャケットが目について、つい覗かせてもらいました」

桐生にもフライトジャケットを作っている縫製工場がある! 興味を惹かれた二渡さんはコーヒーを出してもてなした。お互い気があったのか、縫製の難しさから客の反応まで、話はあちこちに飛びながら弾んだ。

それ以来の付き合いである。理想のバイクウエアを自分で作りたいと考えているうち、ふとこの社長のことを思い出した。そういえば、フライトジャケットを縫っているんだったな。あの会社なら縫製技術はあるはずだし、協力してもらえるかも知れない。早速会社を訪ねた。

だが、返ってきたのはやんわりとした拒絶だった。

「お気持ちは分かりますが、バイク用に売れるのはアメリカ仕様のウエアです。客は日本で新しく作ったバイクウエアには見向きもしないに違いない。買ってくれる人がいないのなら作る意味はないでしょ?」

いや、そうではないはずだ。現に、バイクが何より好きな私が、アメリカ仕様のフライトジャケットに不満が募らせている。多くのバイク好きは、それしかないからアメリカ仕様のフライトジャケットを使っているだけなんだ。心の中では、本当に使えるバイクウエアを待ち望んでいるはずだ!

魚のいるところに糸を降ろすのが釣りの王道だとしたら、二渡さんは魚がいるかどうか分からないところに糸を出し、魚が飛びつきたくなる餌をつけて魚を集めようというのである。ビジネスの王道は前者にある。後者を選ぶのはパイオニアと呼ばれる一握りの人たちだけだ。