FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その18 旅

二渡さんはフラリと旅に出る。愛用のバイクにまたがっての一人旅である。週末や連休は店が忙しい。ふらり旅は、だからいつも平日である。一緒に店を切り盛りする妻のさやかさんに

「ちょっと行ってくる」

と言い残して出る旅は、シーズンオフの旅でもある。少なくとも年に3回。1回あたり1週間ほどかけて日本国中を走る。

目的地は定めない。

「何となく、東北の方に行ってみようか、今回は信州方面か、程度ですね」

地図は持たない。ナビもない。

「目的地がないから無用の長物でしょ?」

原則として一般道を走る。

「高速道路って、目的地があって、そこにできるだけ早くたどり着きたいから使うんですよね。私、どちらもありませんから」

愛車のエンジン音、顔をなでて通り過ぎる風のちょっと手荒い愛撫、初めて見る沿道の景色。バイクならではの楽しみは沢山ある。やっぱりバイクはコンクリートジャングルには似合わない。バイクは山と川のある背景に溶け込む。

だが、二渡さんのバイク旅の楽しみはそれだけではない。

「私、人、が好きなんです。初めて出会う人に『こんにちは』って挨拶をして、四方山話をして。日本中にこんなに人がいるんですもん。1人でも多くの人に会って話してみたいじゃないですか」

食事をするために入った定食屋で。燃料を補給するガソリンスタンドで。

「どこから来なさった?」

「桐生ですけど」

「桐生? 聞いたような気がするけど、栃木県?」

「いや、群馬県ですよ。織物で知られてるって思ってたんですけど。ところで、このあたりで一度は見ておいた方がいい、なんていうのはありますか?」

「ああ、それなら○○を見ていきなさいよ」

「どう行ったらいいの?」

「この道をまっすぐ行って……」

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その19 FREEDOM

ここまで書き継いで、筆者は1本の映画を思い出した。「世界最速のインディアン」。2005年に公開されたニュージーランド・アメリカの合作映画だ。日本では2007年に初上映された。
ニュージーランドのバイクライダーで1000cc以下のオートバイの地上最速記録保持者、故バート・マンローさんの実話をもとにした映画である。主役のバートさんをアンソニー・ホプキンスが演じ、夢に邁進する初老の男を観客の目に焼き付けた。監督はニュージーランドのロジャー・ドナルドソン。

バートさんの憧れの地は、アメリカユタ州ボンネビルのソルトフラッツである。塩湖のあとにできた平原で、毎年8月、地上最速を競う「スピードウイーク」が開かれる。改造に改造を重ねた1920年製のインディアン・スカウトをここで疾走させ、風を超えたい。

60歳をすでに超したバートさんは年金暮らしである。ボンネビル遠征の費用を2000ドルと見積もって貯金はしているが、まだ1275ドルしかない。あと何年かかるか。
そんな折も折、狭心症が見つかる。医者はバイクを諦めろと言った。バートさんは

「今年しかない!」

と心を決めた。家屋敷を担保にして金を借り、ボンネビルに旅立つ。

夢を持つ男は7歳児の心を持つ。片田舎からやって来た7歳児の目に映るアメリカの姿はこの映画の楽しみどころでもあるが、圧巻は世界記録への挑戦だ。

風の抵抗をギリギリまで減らすため、改造インディアン・スカウトには足を排気管に押しつける不自由な姿勢で乗らねばならない。長時間走れば排気管が焼け、足が焼ける。では、とアスベストの布を足に巻くが、それでは車体に入らない。

「ままよ!」

とアスベストを放り出したバートさんは、走る。

1マイル地点:255.317km/h
2マイル地点:270.242km/h
3マイル地点:275.794km/h
4マイル地点:277.587km/h
5マイル地点:295.626km/h

足の皮膚が焦げ始めた。

花を産む さかもと園芸の話 その1 黒保根

2005年に合併して桐生市に編入した黒保根町(旧勢多郡黒保根村)は赤城山の東斜面に位置する。約89%が森林で、残りのわずかな平坦地で営まれる農業や畜産が主産業の静かな山村である。

その黒保根の一角、江戸時代には足尾銅山から運び出される銅の運搬路だった「あかがね街道」(現国道122号)沿いの水沼で、星野長太郎が洋式の製糸工場建設を始めたのは明治6年(1873年)のことだった。翌年操業を始めた「水沼製糸所」は32台の製糸機械をすべて輸入した。動力源は水力である。日本初の、民間の手で出来た最新鋭の洋式製糸所が産声を上げた。

当時の黒保根では農業や林業だけでは人々の暮らしは成り立ちにくく、蚕を飼って繭を取り絹糸を紡ぐのが重要産業だった。鎖国が解かれた幕末以来、絹糸は重要な輸出物資となったものの、国際的には中国産の絹糸にも劣る評価しか得られなかった。人力で糸を巻き取る伝統的な座繰りで糸を取るため太さや撚りが一定しなかったからだ。近代的製糸法を一気に取り入れた「水沼製糸所」は、日本産絹糸の品質を上げ、国際的評価を高める挑戦だった。

では長太郎は、殖産興業の時流に乗って利潤追求を図ったのか? 郷土史家は「そうではない」と見る。長太郎は水沼で代々名主を務めてきた星野家の長男である。それなのに、歴代当主が名乗り続けてきた七郎右衛門の名を継がず、家業ともいえる名主の職にも就かずに製糸所に打ち込んだからである。しかも建設資金を借り入れに頼り、事業計画では赤字を見込んでの船出だった。彼が目指したのは、何より「国のため」であり、「郷土のため」だったらしい。いまでいう「まちおこし」だと見ればわかりやすい。

花を産む さかもと園芸の話 その2 サボテン

坂本正次さんは埼玉県東松山市で、農家の7人兄弟の末っ子、3男坊として生まれた。子どもの頃は農作業を手伝ったが、中学に進むころ、父から農業を受け継いでいた12歳上の兄が農業に見切りをつけてガソリンスタンドに転業した。正次さんと農業との縁は、一度切れた。

中学生になった正次さんはサッカーに魅せられ、熱中した。よほど適性に恵まれていたのか見る見る上達し、サッカー選手を夢見るまでになった。
そんな正次さんの人生を変えたのはお兄さんである。農業高校を出て、ガソリンスタンド経営の傍ら庭でたくさんの花を育てていたお兄さんがある日、旅行の土産に一鉢のサボテンを買って来てくれたのだ。正次さんは、なぜかサボテンに夢中になる。学校ではサッカーで汗を流し、帰宅するとサボテンの世話。

「春先に植えて自分で増やすのが楽しくなった」

のは、やはり農家の血が流れていたからだろうか?
高校でもサッカーは続けた。が、サボテンへの没頭ぶりはサッカー熱を上回った。受験勉強はそっちのけで授業中もサボテンの本を読みあさった。専門店からカタログを取り寄せ、未知の品種の研究も怠らない。

「サボテンも安くはないので、自分で増やしたものを別の品種と交換してもらっていました。当時、専門店で見るサボテンでも、名前を知らないのはなかったなあ」

サボテンへの熱は日を追って高まる一方だった。高校卒業が見えてきたころ、サッカー推薦で大学を紹介してくれる人もいたが、正次さんは迷わず決意する。

「サボテンを一生の仕事にしたい」

花を産む さかもと園芸の話 その3 結婚

サボテンは諦めたものの、草花で生活を築きたいという思いは消えなかった。いや、サボテンへの思いを断ち切らねばならなかった分だけ思いは強まったともいえる。

だが、

「だから、実家の空いた土地を転用して農園を始めました」

と短兵急にことを進めないのも、正次さんである。

迷った。サボテンがダメなら造園業に就職しようか。それとも大学で学んだ知識を使って樹木医になろうか。あれこれ考えたが、

「やっぱり自分の手で植物を育てたい」

という思いは消えない。迷いながら農業関係の出版社が主催した鉢物生産講座を受講してみた。欧州でアジサイの人気が高まり、生産が伸びているという。

「そうか、アジサイなら育てることが出来るかも知れない」

頭を切り替えた。大学の指導教授に話すと、教え子を紹介してくれた。栃木県日光市で主にシクラメンを育てている谷澤園芸の谷澤一三さんである。花を育てるのなら、まず現場を知らねばならない。正次さんは谷澤さんの家に住み込み、修業を始めた。花まみれ、土まみれの1年2ヶ月は、テレビを見る時間もないほど働き、学んだ。

谷澤園芸で学びながら、正次さんはさらに2つのことを並行して進めた。独立して自分で持つはずの農園の土地探しが1つ。もう1つは結婚を急いだのである。

ここでの読者の関心は、おそらく「結婚」に集中するだろう。よろしい。正次さんの結婚から話を進めよう。

相手はもちろん久美子さんである。中学の同級生だった。誕生日が3日違いの「お姉さん」である。高校は男女別学で縁は途切れたが、大学に入ると通学電車で顔を合わせるようになり、いつかグループでの交際が始まった。2人だけの時間を持つようになったのは大学を卒業するころからだった。
ここは久美子さんに登場してもらおう。

「はい、ときどき正次さんが私の家に来るようになりました。私の車でドライブに行くんです。遊びや映画の話しかしないサークル仲間と違って真面目に人生の話をする人で、サボテンに賭けた夢を訥々と話すんです。大学に進んだのもそのためで、だけど金がなくて、なんて。ああ、他の人と違って、この人は大地に足がついた、しっかりした考えを持って生きてるなって惹かれるものがありましたからお付き合いを続けました」