さかもと園芸の話 その9 フロリアード

チューリップで名高いオランダは、花の国とも呼ばれる。そのオランダで10年に1回、開催都市を変えながら開かれる国際園芸博覧会「フロリアード」は花のオリンピックとも呼ばれる。

4回目に当たる1992年の開催都市はハーグとズーターメア市だった。世界26カ国から出展があり、4月から10月までの開催期間中、336万人が訪れたと記録にある。

「こんな大きな花をつけたアジサイは見たことがない!」

公式のオープニング行事に出席したベネトリクス・オランダ女王が思わず感嘆の言葉を漏らしたのは群馬県のブースでのことだった。女王の目は、さかもと園芸が出品していた「ミセスクミコ」に釘付けだった。現地の新聞も、この情景を記事に取り上げた。

何度も逸話をご紹介した通り、正次さんは欲が薄い人である。金についても

「食べていければいい」

という人だから、ましてや名誉などには全く目を向けない。ただただ、花を立派に育て、自分の思い描く花を産み出したいと園芸に取り組む人である。
だが、実績が積み重なるにつれて、周囲が放っておかなくなった。各種の展覧会に群馬県から出展を求められ、様々な賞をもらった。1983年に開催された第38回国民体育大会(赤城国体)では、

「メイン会場(現在の正田醤油スタジアム群馬)に、花で国体マークを作って欲しい」

と群馬県の依頼を受けてみごとにやり遂げた。久美子さんによると、

「どこに出しても、何をやっても『こんな賞をもらったぞ!』なんて絶対にいわない。今度も何とか期待にこたえられた、と胸を撫で下ろしている人です」

花を産む さかもと園芸の話 その10 金賞

「こんな大きな花をつけたアジサイは見たことがない!」

ベネトリクス女王の驚きは、審査員たちの驚きでもあったのだろう。フロリアード1992でひときわ華やかだった群馬県のブースは高い評価を受けた。竹で編んだドームのデザインが金賞を得た。そして、ベネトリクス女王の目を輝かせたさかもと園芸のアジサイから、「ミセスクミコ」が選ばれて、これも最高賞である金賞を受けたのだ。
正次さんの目は、決して身びいきで曇ってはいなかったのである。

前にも書いたように、アジサイは日本原産である。だが、品種改良が進められて様々な新種を創りだし、「本場」を誇ってきたのは西洋だった。その西洋のオランダで開かれた国際展示会で、アジサイの原産地である日本の坂本正次さんが、原産地の意地を見せた画期的な受賞だった。

「きっと」

と久美子さんは語る。

「西洋のアジサイって、あまり手をかけなくても作ることができるものが多いんです。育種の段階から自立するものが選ばれている。それに比べて正次さんは花が咲いたときの形の美しさにこだわりました。その結果、生育途中は支柱で支えてやらなければ立っていられない種もできたんです。だから手間がかかります。いってみれば、私たちのそんな繊細さが評価されたのではないでしょうか」

フロリアード事務局から賞状を受け取った。受け取ったのはそれだけである。賞金も賞品もない。いわば、名誉だけが与えられる賞である。
それでも、日本の花業界は湧いた。

「店頭に『ミセスクミコ』を並べるとき、『フロリアード1992金賞受賞』ってパネルを出しましょうよ」

という人がいた。正次さんは激しくかぶりを振った。

「俺は嫌いだ。絶対にやらない! そんなことをしなくったって、分かってくれる人は分かってくれる。それでいいんだ!」

花を産む さかもと園芸の話 その11 シクラメン

アジサイとともに正次さんが経営の主軸に据えたのが冬の花の王ともいわれるシクラメンだった。修行したのがシクラメンを育てている谷澤農園だったから、自然な選択でもあった。それに、シクラメンは、クリスマス向けの出荷が中心である。春から初夏の花であるアジサイと組み合わせれば、ビニールハウスを1年間、効率的に使うことができる。

シクラメンは手をかければかけるほどいい花ができるといわれる。「葉組み」といわれる作業を繰り返すのである。

シクラメンは球根から葉や花の茎を伸ばす。何もしなければ、葉や花は勝手な方向に向かってしまう。これを、花は真ん中に、葉はその周囲に広がるように整える作業を「葉組み」という。葉を外側に、花は中心部に集めることが多い。

数千鉢も並んでいるビニールハウスで、1つ1つの鉢にこの作業を繰り返す。花が付いた茎を中心に寄せ、葉の付いた茎を上手く回して花の茎が元に戻らないようにする。また、葉の付いた茎も右と左、上と下を巧みに入れ替えて全体の形がまとまるようにする。これを出荷までに5会も6回も繰り返す。この回数が多いほど姿形が整い、高い評価を受けるシクラメンになる。

「ええ、最初は正次も、日本一のシクラメンを作ってやるって意気込んでいました。でも、うちのような経営形態では無理なんですね。小規模で家族労働だけでやっているところなら夜なべ仕事でもできるでしょうが、パートさんにもお願いしなければやっていけないうちの規模では、そこまでの手はかけられないんです」

そこで挑んだのが種取りだった。シクラメンは種から育てるのが普通だが、種を蒔いても同じ花をつけたシクラメンが揃うとは限らない。花弁の形が違ったり、様々な色が出たりするのが当たり前だった。そうしたバラツキをできるだけなくそう。発色をもっと良くしよう。信頼のできる、いい種を作ろう。
種を取り、育てる。狙った花弁の形、色、丈夫さなどを備えたものだけ残し、また種を取る。こうしてバラツキのないシクラメンの種を取ろうというのである。

「坂本さんの種は実に安定している。素晴らしい!」

と高く評価したのが日本たばこ産業(JT)アグリ事業部だった。さかもと園芸でできたシクラメンの種を買い取り、生産者向けに販売するようになった。

「一時は、国産のシクラメンの種の1割を、うちの種が占めていました」

花を産む さかもと園芸の話 その12 開花促進剤

シクラメンを育てるにあたり、正次さんがこだわったことがある。開花促進剤を絶対に使わないことである。

開花促進剤とは一種のホルモン剤で、これを散布すると狙った時期に花を咲きそろわせることができる。園芸農家としては、何より出荷時期の調整が楽になる。それに出荷時の見栄えを良くしたい。店頭に並んだときに絢爛に咲きそろっているシクラメンは華やかで豪華に見えるからである。使用量はごくわずかだから、コストもたいしたことはない。花屋の店頭に並ぶシクラメンのほとんどに成長促進剤が使われているのが現実である。

だが、人の身体にホルモン剤が副作用をもたらすように、開花促進剤にも副作用がある。使用量を間違うと、希に花がねじれたり奇形が出たりするのである。専門の園芸農家が使うのだからそんな間違いはほとんどないのだが、さかもと園芸は絶対に使わない。

「花にストレスを与えたくない!」

正次さんはそう考えた。
確かに、無理に花を咲かせられればストレスを感じるだろう。人間だって、健康な毎日を送っているのに、あえてホルモン剤を使う人はあるまい。花だって、自然に、健康に育ててやればいい。花を愛するとは、そういうことなのではないか?

「だから、うちのシクラメンに派手さはありません。贈答用には向かないかもしれませんが、長い間、次々に、自然に花が開いていきます。はい、ご家庭で長く楽しんでいただきたいのです」

久美子さんはそう説明してくれた。

花を産む さかもと園芸の話 その13 佳子さん

最初の清子さんこそ生後間もなく亡くしたが、正次さんと久美子さんはそのあと3人の子宝に恵まれた。花作りは正次さんが生涯をかけて取り組んだ事業である。心の内では、3人のうちの誰かに引き継いで貰いたいと願っていたかも知れない。だが、そんな思いを口にしたことは1度もない。親を含めた周囲の反対を押し切って花作りを選んだ自分の人生を考えれば、親の思いを子どもに押しつけることはできないと割り切っていたのかも知れない。

3人の子供たちは、黒保根でスクスクと育った。長女の佳子さんはモダンアートに惹かれ、米国留学に旅立った。いま長男は教師の道を選んで足利市に居を構え、高知市に嫁いだ次女は薬剤師である。さかもと園芸は、正次さん、久美子さん1代限りの事業になるはずだった。

しかし、人生、一寸先は闇である。いや、坂本さんたちに限れば一寸先は希望だったと言える。いま、佳子さんが留学先のアメリカで知り合ったチャイさんと結婚し、夫婦で花作りを引き継いでいるのである。
さかもと園芸は第2世代に入った。

黒保根で育った佳子さんは東京家政大学服飾美術学科に進んだ。

「いいお嫁さんになるために」

である。ところが、在学中からモダンアートになぜか心が動き、とにかく突き進もうとアメリカに渡った。1999年のことだ。英語は大の苦手だったが、

「行けばきっと話せるようになる!」

とシカゴに向けて飛び立ったのは、若さの特権だろう。

チャイさんはラオスの首都ビエンチャンで生まれた。父は実業家で、兄と姉、それに弟がいる。祖母がいたタイの小学校を出て、タイ・バンコクの高校に進んだ。大学に行こうと考えたが、ラオスには1校しかない。とはいえ、バンコクの大学には関心が持てなかった。そこで、叔父がいるアメリカに渡り、オハイオ州立トレド大学に入った。建築をまず選んだが、途中でつまらなくなりコンピューター学び始めた。

トレド大学のキャンパスに語学学校がある。様々な国からアメリカに学びに来た学生たちが、まず英語を身につけようと通ってくる。その1人に佳子さんがいた。

世界中からの学生が集まっている。そんな環境でアジアからの留学生がグループを作るのは自然な流れなのかも知れない。その中に佳子さんとチャイさんがいた。渡米したばかりの佳子さんはほとんど英語が話せなかった。ジェスチャーと電子辞書しか共通言語がなかったのに、なぜか若い2人が友情以上の思いを抱くようになったのは赤い糸が2人を繋いでいたからだろう。