花を産む さかもと園芸の話 その15 必死に学んだ

振り返ってみれば、正次さんと久美子さんもゼロからの出発だった。2人になかったのは生産設備である。土地もなく、ビニールハウスも給水施設も何もないところから2人は歩みを始めた。だが、園芸の知識は大学の4年間、谷澤農園での3年間、身につけられるものは総て身につけていた。

チャイさんの前には、正次さんたちがたった1棟から6棟にまで増やしたビニールハウスがあった。給水施設も整い、生産システムも出来上がっている。安定した取引先もあり、何より、オランダのフロリアードで2回連続の最高賞に輝いた高い評価があった。これほど恵まれたスタート地点は、望んでも与えられることは希だろう。

しかし、チャイさんと佳子さんには肝心要のものが欠けていた。花作りのノウハウである。それがなければ6棟のビニールハウスは単なるがらんどうと変わらず、蓄積された生産システムは役に立たないマニュアルに過ぎない。

花を作り、育てるとはどういうことなのか。総ての出発点となる知識が、チャイさんにはなかった。英国に留学したが、ほとんど役に立たなかった。義父を講師にした勉強会では何を学んだのだったか……。

「はい、だから僕、それから一所懸命勉強しばければならなかった」

正次さんの病状は重かった。意思疎通ができない。正次さんも、30年以上の実践で積み上げた沢山の知識を次の世代に伝えたいに違いないのに、言葉が出ない。

正次さんはたくさんのメモを作っていた。しかし、片言隻句の集まりだから、正次さんの役にはたっていたのだろうが、周りの人たちには整理しなければ意味が通じない。しかし、久美子さんにも佳子さんにも、メモを整理できるだけの知識はなかった。

比較的に整理されていたのは、土作りだった。アジサイ、シクラメンのそれぞれの種類について、どんな成分をどの程度混ぜた土にすればいいのか、様々な失敗例も隠さずに記録されていた。しかし、それだけでは間に合わない。その土に、どんな肥料をどんな比率で混ぜたらいいのか。水をやるタイミングをどう測るのか。毎年変わる気候への対処法は。知れねばならないことは山ほどある。

花を産む さかもと園芸の話 その16 チャイ式

1年目。理解できた限りで正次さんの仕事を忠実になぞった。だが、作業を始めて見ると、分からないことが次から次に出てきた。加えて、仕事の段取りにも戸惑った。目が回るほどに忙しいのに、仕事が追いつかない。

「だから、冬用に準備していたシクラメンの苗木の半分を、同業の方に買っていただきました。それにアジサイの挿し木もしなければならなかったのですが、これも半分に減らさざるを得ませんでした」

と佳子さんは振り返る。さかもと園芸の総てを取り仕切ってきた正次さんの存在の大きさを改めて思い知らされた。

だが、泣き言を言っている暇はない。チャイさんと佳子さんは仕事の手順を見直しつつ、次の年の準備に追われた。まだ正次さんのレベルにははるかに及ばない。シクラメンもアジサイも、正次さんの時代の7割ほどの数に抑えた。まだ生産量は追いつかないが、咲いた花は美しかった。

そして3年目。思い切って生産量を正次さんの時代と同数にした。

「あの年は失敗だったよ」

とチャイさんは振り返る。花の質がガタンと落ちたのである。花の病気に見舞われたのだ。

花は生長に応じて大きな鉢に移し、花と花の間隔を広げていかねばならないことは知識としては分かっていたが、いざやろうとしたらスペースがなかった。成長時期をずらし、早く咲いた花から出荷してスペースを空ける知恵がなかった。やむを得ず、密植にしてしまったことが病気の原因らしい。年間の生産計画、作業スケジュールを見直さなければならない。

花を産む さかもと園芸の話 その17 フラワー・オブ・ザ・イヤー

「やっぱり自分の花が作りたい」

チャイさんがそう思いだしたのは、経営を受け継いで4年目のことである。まだ生産は安定しなかった。しかし、それまでの3年間、生産を安定させるために工夫を繰り返し、どこを改良しなければならないかは見え始めていた。それさえやり遂げれば、あとは同じ作業を毎年繰り返すだけになる。それは退屈だ。
それに、正次さんからこの事業を受け継いだ以上、少なくとも正次さんと同じレベルに立たねばつまらないではないか? 正次さんが新種を作りだしたのなら、僕も、誰も持っていない花を作りたい!

正次さんが、掛け合わせの結果を思い描きながら原種を選んで掛け合わせる慎重派だとすれば、チャイさんは

「やってみなければどんな花が出てくるか分からないだろ?」

と無駄を厭わず、思いつく限りの品種を掛け合わせてみる行動派といえる。正次さんはたった2つの品種から「ミセスクミコ」を産み出した。チャイさんは30数種類のアジサイ原種を思いつくままに選び、交配した。2011年春のことだった。
11月には種が取れ、翌春蒔いた。沢山の種からどんな花が咲くのか。全く予想がつかないまま、2013年春、さかもと園芸のビニールハウスで、新種の花が一斉に咲きそろった。

チャイさんは、咲きそろった新しいアジサイの手入れに熱中した。日に何度となく水をやる。そんなある日、不思議なアジサイに気がついた。

「ねえ、佳子、これは裏側にあるはずの本当の花も大きく咲きだしているよ。見て、見て」

違いはそれだけではなかった。

「佳子、ちょっと見てみてよ。ほら、これとこれ、昨日までは白地をパープル、ピンクのラインが縁取っていたのに、ほら、色の付いたところが広がっているんじゃない?」

花を産む さかもと園芸の話 その18 変化

正次さんは花を育てることに総てを賭けた。ビニールハウスの設備には身の丈を超えた力を注いだ。同業者に先駆けて導入しただけではない。これ以上ないほど細かく制御できるようにし、

「これ、園芸試験場並みの設備ですね」

と皆が驚くシステムにしたのである。愛する花が生まれ育つ場所なのだ。より快適な環境でスクスクと育って欲しいと願った。

ビニールハウスの天窓は自動開閉式である。温度や湿度、雨、風をセンサーで読み取り、必要があれば自動的に開き、閉じた方が良い環境では閉じる。

ビニールハウスの温度も自動設定だ。冬場、ある温度より下がれば自動的にボイラーに火が入り、温める。

プールベンチも導入した。成育中の鉢を並べる沢山の台に縁をつけ、中に水がたまるようにした。これがプールベンチだ。1箇所から水を入れれば総ての鉢に水を給することができる。個別管理のため、それぞれの鉢にチューブを挿して吸水するチューブ灌水設備も備えた。

スプリンクラーも取り付けた。上から水を振りかけたいときはシャワーのように水が降り注ぐ。

久美子さんに言わせれば

「ええ、新しいものが大好きで。設備の営業に来た人にはなしを聞いて、花に良さそうだと思うともう止まらないんです。まるでおもちゃ屋に行った子どものようでした」

あまりのお金が出ていくので、久美子さんが反対したこともある。

「そんなに高いものを買ったら、今月、来月の暮らしができない、って耳に入らないんです。何とかなるだろ、って。だから、うちの台所はいつもピーピーでした」

チャイさんが引き継いださかもと園芸は、花に取ってみればこれ以上はない生育環境を備えた快適な場所だった。

だが、仕事の全体像が分かるようになって、チャイさんが困惑したことがある。

「相手が花という生き物だから、ここを離れるに離れられないことね」

正次さんの暮らしは花を中心に廻っていた。土曜も日曜もない。できることなら、四六時中花のそばにいたい。久美子さんは、そんな正次さんを敬愛し、いつもそばにいた。

「だけど、僕たちの生活は?」

花を産む さかもと園芸の話 その19 再びフロリアード

チャイさんは様々な花のコンテストに応募し、出すたびに数々の賞を得てきた。
だが、まだ手にしていない賞がある。フロリアードの最高賞である。

正次さんは1992年、2002年と2回連続で最高賞に輝いた。10年に1度開かれるフロリアードの次の開催年は2012年。すでにチャイさんがさかもと園芸を引き継いだ後である。だが、この年の受賞者一覧には、さかもと園芸の名はなかった。フェンロー市で開かれたフロリアード2012に、さかもと園芸は出展していなかったのである。

「なんだかね、役所の方に声をかけていただいたのが始まる半年前ぐらいだったかしら。今回も出して欲しいといわれたんだけど、準備期間を考えると、とても間に合わなかったものだから止めたんですよ」

と久美子さんはいう。東日本大震災が引き起こした大きな災害で日本中が動転していた時期である。役所の対応にも遅れが出たのかもしれない。

さかもと園芸は3回連続最高賞の機会を逃した。いや、2012年といえば、チャイさんが経営を引き継いで悪戦苦闘していた時期だ。まだ育種は手がけていない。
正次さんが育種し、フラワー・オブ・ザ・イヤーに輝いた「フェアリーアイ」というアジサイの新種はあった。「フェアリーアイ ブルー」は八重に咲きそろうガクが透き通るようなブルーに色づき、夏場になると黄緑色に変わる。思わず引き込まれるような深いブル−が印象的な「ブルーアース」も準備はできていた。しかし、どちらもフロリアードの開催時期に合わせて作り出した新種ではない。だから、出展しても受賞は逃したかも知れない。
しかし、機会を逃してしまったという後悔は、チャイさんの胸にある。

「いい花を作れば売れる」

と言い切って賞には全く関心を持たなかった正次さんとは違い、チャイさんは積極的だ。人一倍名誉欲が強いというわけではない。日本の花の市場は「賞」を高く評価する。受賞すればより高い価格で売れる。経営者を自覚するチャイさんにとって、さかもと園芸に利益をもたらしてくれる「賞」は無視できないのである。

そして、個人的な思いがある。

日本に住み着いたチャイさんは、それでも「外人」である。外見の違いは一目で分かるし、日本語も会話に困るほどではないが、流ちょうとはいえない。
だからだろう。

「日本に来た最初は、それほど強くではないけど、ああ、『外人』って見られてるなと思った」

差別、とまではいわないが、ある違和感を持たれているとの思いが消えなかった。

「それが、たくさん賞を取ったらなくなったね。いまはどこに行ってもrespectされていると感じるよ」