街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その1 街を照らす

喜劇王という尊称で形容されることが多いチャールズ・チャップリンだが、彼が創りだした映画は決して喜劇だけではない。

1940年、ドイツで台頭したナチスを率いるアドルフ・ヒトラーを戯画化してみせた「独裁者」は、まだ米国が第二次世界大戦に参戦する前に劇場公開された。ナチスに抑圧されるユダヤ人に寄り添い、強大なナチス政権に真っ向から戦いを挑むこの映画は、喜劇でありながら政治的プロパガンダでもある。そして、人間愛を歌い上げ、返す刀ですべての人の心の奥底には独裁者になる芽があることを描き出す視線も併せ持つ。

1952年作の「ライムライト」では、誰にも避けることができない「老い」と向き合った。老いてうらぶれた道化師と、一度は将来に絶望して自殺を試みた若きバレーダンサーの恋物語である。老いらくの恋は成就するのか、いや、成就させていいのか。道化師に支えられながら華やかなデビューを果たしたダンサーを舞台の袖で見やりつつ死出の旅に出る道化師を、チャップリンはおそらく自分と重ねながら美しく描き出した。

そんなチャップリンの作品の一つに「街の灯」がある。公開されたのは1931年。2年前の株価大暴落の影響が癒えず、大不況さなかにあるアメリカが舞台だ。

チャップリンの役柄は浮浪者。今日の暮らしさえままならない彼はある日、街で出会った盲目の花売り娘に一目で恋をする。その時、タクシーが走り去った。目が見えない彼女は、この浮浪者を

「タクシーに乗ることができるお金持ちなんだ」

と誤解する。そして浮浪者は、その誤解を利用して彼女の心を捉えようと奮戦するのである。
彼女への思いは日々募るばかりだ。募った思いは

「何とか彼女の目が見えるようにしてあげたい」

という願いに育った。いや、待て。彼女に視力が戻れば自分が浮浪者であることがばれてしまうではないか? それでいいのか?
しかし、彼女への思いにそんな打算が入り込む余地はなかった。チャップリンが悪戦苦闘の挙げ句に工面した手術費用で、彼女は視力を取り戻す。ある日、目が見えるようになった彼女の前に浮浪者が現れた。彼女の目には、襤褸をまとった可愛そうな浮浪者の姿しか見えない。この浮浪者が目を治してくれた「彼」だと気がつくはずもない。

そして……。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その2 ふみえさん

「カフェをやりたい」

と最初に思いついたのは、不動産会社アンカーの副社長、川口雅子さんだった。雅子さんは、社長である貴志さんの妻である。

といっても、社長夫人の趣味、道楽でオシャレなカフェのオーナーになりたいと思ったのではない。ましてや、副社長の仕事として、不動産業営業の新形態、別働隊としてのカフェをつくろうと戦略的に考えたのでもない。
ある日、

「まちのお年寄りたちが気楽に立ち寄れる場所があったらいいなあ」

という思いがふと浮かび、思いに背中を押されて計画に着手した。
そんな思いにとらわれるまでには、短い歴史があった。

桐生市の本町通り沿いに、3階建てのビルがある。そのオーナーが、武士ふみえさんだった。
雅子さんが知り合ったときはすでに89歳。ご主人はとっくになくなり、一人息子にも先立たれた独り暮らしだったが、このビルの1階を賃貸し、その収入で経済的には不自由のない暮らしをしていた。
しかし、波風はあらゆる人の人生につきまとう。ある日、賃貸契約が解消され、テナントが出て行ったのだ。

家賃収入がなくなった。暮らしを維持するには新しい入居者を探し、賃貸借に伴う物件の管理、家賃の徴収もせねばならない。しかし、ふみえさんは普通の主婦しかやったことがない。専門的な契約の話なんてどうしたらいいのか見当もつかない。困って親戚筋の病院長に相談し、そこで紹介されたのが不動産会社アンカーだった。こうして、雅子さんはふみえさんに出会った。2006年のことである。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その3 介護施設

探した。しかし、なかなか見つからない。介護施設は、心身ともに健康なお年寄りの受け入れには後ろ向きなのだ。健康なお年寄りの方が受け入れやすいだろうと思うのだが違った。

それでも東京近郊にまで範囲を広げれば、ふみえさんのように元気なお年寄りを受け入れる高齢者マンションなどがたくさんある。ふみえさんにはピッタリなのだが、残念ながら桐生にはない。かといって東京に引っ越したら、親戚や友達となかなか会えなくなる。それもふみえさんの年齢では辛いだろう。

探しあぐねているうちに、ふと思いついた。不動産会社アンカーの本社が入っているマンションにたまたま空き部屋があったのだ。

「ここに入ってもらったらどうだろう?」

2人はそのマンションへの入居を勧めた。高齢者用に特化したマンションではないが、桐生市菱町に住んでいた雅子さんは、午前9時前には1階にあるアンカーの事務所に出る。

「このマンションならエレベーターもあるし、何かあったら私がすぐに行けます。ここで暮らしませんか?」

ふみえさんに話したらたいそう喜んでくれた。引っ越しはそれから間もなくの2011年暮れのことである。

こうして、ふみえさんと

「味噌汁の冷めない距離」

になった雅子さんは、ますますふみえさんの魅力を知ることになる。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その4 別れ

雅子さんにとってみれば、ふみえさんは母親の年代の方である。でも、気が合う、とはこういうことをいうのだろう。お互いに気を遣いながらちょうどいい距離を保つ付き合いは心から楽しかった。ふみえさんはもう高齢だったから、そんな関係が10年も15年も続くとは2人とも考えてはいなかっただろう。しかし、まさかわずか1年半で終止符が打たれるとは想像もしていなかった。

2013年5月だった。1階の不動産会社アンカーの事務所で仕事をしていた雅子さんは、いつものようにヘルパーさんが来たことに気がついた。ヘルパーさんが来れば、間もなくふみえさんが降りてくる。今日も元気で介護施設に行くんだな、と瞬間思ったような記憶がある。しかし、すぐに仕事に紛れて忘れてしまった。適度な距離感とはそういうものである。

昼を過ぎたころだった。ヘルパーさんが、どういう訳か民生委員を伴ってアンカーの事務所に入ってきた。何事だろう?

「今朝、ふみえさんが出てこられなかったんです。これまでそんなことはなかったのですが、何かご存じありませんか?」

ドキッとした。それじゃあ、今朝、ふみえさんは降りてこなかったのか。ひょっとしたら自力では部屋から出られなくなっている? いまふみえさんはどうなっている? 無事?

「私、ヘルパーさんには私の携帯の番号も知らせてあるのに、なんにも連絡してくれなかったじゃないですか」

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その5 縁

ふみえさんが住んでいた本町通り沿いのビルは、亡くなったご子息が設計したものだった。ふみえさんにとっては喜びと悲しみの思い出がいっぱい詰まっている特別な建物だ。それを

「是非川口さんに買って欲しい」

とふみえさんが頼んできたのは亡くなる1年ほど前のことである。他の人には譲りたくない。何としてでも川口さんに受け継いで欲しい、というふみえさんの思いがひしひしと伝わってきた。

2人はふみえさんの思いを受け止め、譲り受けることにした。すぐに売買契約を結び、それまで住んでいた桐生市菱町から引っ越した。
住まいは3階である。テナントが入っていた1階は相変わらず空いていた。そして、ふみえさんが亡くなった。

「よし、私、ここでカフェを開こう」

ふみえさんの葬儀を終えて間もなく、たくさんのお年寄りの「知ってる人」になろうという雅子さんの計画が動き始めた。ふみえさんに頼まれてこのビルを買ったのも、

「雅子さん、たくさんのお年寄りが集まれる場所をつくってね」

というふみえさんのメッセージだったのではないか? これもきっと何かの縁なのだ。ふみえさんに応えるにはカフェを開くのがいい!

心が決まればあとは準備を急ぐだけだ。貴志さんは今回もあっさり同意してくれた。
1階の広さは約100m2。少し狭いかな、と思ったが、何しろ空きスペースである。採算を考えないカフェを開くには、家賃がいらないのは何よりありがたい。